अन्तवन्त इमे देहा नित्यस्योक्ताः शरीरिणः ।
अनाशिनोऽप्रमेयस्य तस्माद्युध्यस्व भारत॥२.१८॥
antavanta ime dehā nityasyoktāḥ śarīriṇaḥ |
anāśino'prameyasya tasmādyudhyasva bhārata||2.18|||
永遠不滅で、プラマーナで知られず、体を支える人にとって
その支える体は終わりあるもの、故にバラタの子孫よ 戦え![2-18]
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クリシュナは、ātmāが何者にも破壊されず、すべてを支える存在であることを説き、これが真実であることを明らかにしました。
しかし、もしsatが普遍的で不滅ならば、satに依存するasatもまた、satと同じくらい真実で不滅になるのではないか、という疑問が生じます。
例として、バラの香りが糸に移るように、asatもsatの不滅する性質を持つのではないか、という問いが投げかけられます。
この問いに対し、本文では「いいえ」と明確に否定しています。
その理由は、satとasatの間にはそもそも関係がないからです。
経験できるリアリティ[vyāvahārika-mityā]という、同じレベルのリアリティを持っています。
同じレベルのリアリティにあるもの同士なら、関係が成立し、一方の属性がもう一方に移行することもあり得ます。
しかし、satとasatは異なる次元の存在です。
ポットは土から作られますが、最終的に存在する真実は土だけであり、ポットは土の一形態に過ぎません。
同様に、asatはsatとは別の存在ではなく、satの中に含まれる、あるいはsatに依存する「見せかけ」に過ぎません。
したがって、asatはsatと関わることによって、satの持つ「破壊できない」という属性を得ることはありません。
なぜなら、asatはsatとは異なる、独立した存在として関係を結ぶことができないからです。
satだけが真に存在し、asatは本質的には存在しないため、属性の移行は起こらないのです。
◎物理的な体はミッテャー
私たちが「体」と呼ぶものは、骨、皮膚、肉、血液、細胞など、様々な要素が組み合わさったものです。
これらの構成要素はそれぞれが多くのものに依存しており、体全体としても5つの要素に依存しています。
生物学的に見ても、化学的に見ても、肉体は常に変化し、特定の定義に固定できないため、ヴェーダーンタの視点からはmityāであるとされます。
肉体は創造されたもので、作られたものである以上、必ず終わりを迎えます。
このことから、肉体は、終わりを持つもの[antavat]と表現されます。
クリシュナは、自身の体も含め、目の前のすべての肉体が終わりを持つものであると述べました。
では、これらの体は誰に属するのでしょうか? 体[śarīra]は、ātmāによってのみ存在と意識を与えられています。
ātmāは、物理的な体[sthūra-śarīra]にも、かすかな体[sūkṣma-śarīra]にも、その存在を与えています。
かすかな体は、意識を映すことができる(意識によって意識的になれる)ので、肉体は意識的です。
したがって、体はそこに宿るātmāに属し、その存在をātmāに依存しています。
この詩の中では、物理的な体を表す言葉として、dehaとśarīraの2つが使われています。
dehāḥは、変化を経験し、終わりを迎えるすべての肉体を指し、複数形で使われます。
śarīrinは、この体に宿る永遠で変化しないもの、すなわちātmāを指します。
ātmāは唯一無二の存在であるため、単数形で使われています。
◎誰が破壊されることができるのか?
ここでは、以下の3つの事実が語られています。
①肉体は複数存在するが、ātmāは唯一である。
②ātmāは終わりがなく、すべての肉体の後ろにある。
③ātmāは滅ぼされることがない。
これらの事実から、クリシュナはアルジュナに「誰を殺すことができるのか?」と問いかけます。
本当に殺せるのは、破壊の対象となるもの、つまり滅ぼされるものだけです。
そして、「滅ぼすことができない者」こそが、真のあなたであるātmāなのです。
この理解に基づき、クリシュナはアルジュナに「すべきことをしなさい。戦いなさい[yudhyasva]」と言います。
アルジュナにとってのダルマは、クシャットリヤとして戦争を戦い、正義を守ることでした。
「破壊」には2つの種類があります。
①比喩的な破壊: 「彼が終わりだ」といった、物理的な死ではない、状態の変化や消滅を指す表現。
②完全な破壊: 物理的な死や物の完全な消滅。
同様に、「永遠」にも2つの種類があります。
①比較上の永遠: 他のものと比較して長い期間存在すること。
②絶対的な永遠[nitya]: 常に存在し、いかなる変化や死からも完全に自由であり、時間という枠組みを超越していること。
この詩のaprameyaは、知ることができないものという意味です。
aprameyaは、知る人[pramātṛ]が、知識を得る道具[pramāṇa]を通して得る対象のことです。
ここで重要なのは、私たちが見たり、知識として捉えたりできるすべてのものは永遠ではないもの[anitya]です。
なぜなら、それらは時間と空間の枠の中にあり、常に変化しているからです。
知覚できるものは、常に変化の要素である時間の影響を受けるため、決して同じ状態に留まることはありません。
しかし、ātmāは知識の対象になり得ないため、aprameyaであると説明されています。
この点について、「もしātmāが知識の対象でないのなら、なぜギーター・シャーストラを学ぶのか?」という疑問が生まれるかもしれません。
◎知覚の本質
シャンカラは、肉体は破壊の対象[anitya]であり、多数存在する一方、ātmāは永遠[nitya]であり、唯一の存在であると述べます。
さらに、ātmāは知識の対象になり得ないもの[aprameya]であるとされます。
ここで、「見分けて理解できるもの、限りあるもの[paricedya]」という概念が導入されます。
この概念には、以下の3つの要素が関係します。
たとえば、目という感覚器官[paricchedaka]は、物の形や色[paricchedya]を他のものと見分けます。
このように、私たちがある物体を「これはポットだ」「これは布だ」と認識できるのは、それが条件付けられ、限定されており、感覚器官[pramāṇa]によって捉えられる対象であるためです。
これらのpramāṇaによって、物として限定された形で知ることができないものがaprameyaです。
ブランマンもまた、ポットや木のように、こんな物として認識できる対象ではありません。
もしブランマンがparicchedyaであるなら、それは世界に数ある物体の一つに過ぎなくなり、永遠ではないもの[anitya]になってしまいます。
しかし、ブランマンは知覚や推論などの通常のpramāṇaでは知ることができません。
ここには言葉[śabda-pramāṇa]、つまりヴェーダも含まれます。
ヴェーダも知識を得るためのpramāṇaですが、例えば天国のようにヴェーダによって語られる対象は、それでも限定された知識[paricchedya]です。
なぜなら、天国は地獄や地上とは区別されるものであり、限りがあるからです。
同様に、プンニャも言葉によって定義され、パーパとは区別されます。
このように、言葉も知識を得るための道具[pramāṇa]ですが、それによって得られる知識もまた限定的なものです。
◎アートマーは、プラマーナによって成し遂げられない
ātmāは、知覚[pratyakṣa]や推論[anumāna]といったプラマーナでは認識できません。
なぜなら、ātmāは知識の背後に常に存在し、それらの認識手段が機能するための基盤だからです。
ギーター・シャーストラやヴェーダーンタが、ātmāについて語るのは、ātmāの存在を「確立する」ためではありません。
ātmāは、既に自ら明らか[svataḥsiddha]な存在であり、誰にでも知られています。
新しい病気の発見のように、プラマーナは「存在しているがまだ知られていないもの」を発見するのに役立ちます。
しかし、ātmāはそうした未知の存在とは異なり、常に自らを明らかにしているものです。
グルが、ヴェーダを通してātmāが知られないと言うと、生徒は混乱し、全ての学びが無駄だったと感じるかもしれません。
これは、生徒がātmāも、他の知識の対象と同様にプラマーナで理解できると誤解しているためです。
シャンカラは、この誤解を否定しています。
要するに、ātmāは、私たちが何かを知覚したり推論したりする前から、すでに自ら存在する、常に明らかなもの[svataḥsiddha]です。
ヴェーダーンタの探求は、その既に存在するātmāを新たに発見するのではなく、誰ものātmāが、既に明らかな存在であることを認識するためのものだ、とシャンカラは説いています。
◎プラマーナとしてのシャーストラ(聖典)
シャンカラによれば、シャーストラは、ātmāの存在を新たに証明するものではありません。
なぜなら、ātmāは既に自ら明らか[svataḥsiddha]だからです。
しかし、人々はātmāについて誤った観念があり、それが無知[avidyā]です。
ātmāの上に個人の観念[jīvatva]が投影されています。
シャーストラの役割は、このātmāに関する誤った観念や投影、混乱を取り除くことにあります。
天国や特定の儀式の効果など、他のプラマーナでは知りえない全く新しい知識をもたらす場合とは異なり、ātmāは、既に知られています。
しかし、誤解されている、その無知を取り除くことがシャーストラの役割です。
私たちは、ātmāをjīvaとして勘違いしています。
この「jīvaである」という認識こそが、ātmāに関する無知です。
シャーストラは、この無知を取り除き、ātmāが本来パラム・ブランマであり、限りのないものであるという真実を明らかにします。
ātmāは、自ら明らかであるにもかかわらず、限りがない存在であることが知られていないために、肉体や思考といったあらゆる制限がātmāの上に投影されてしまうのです。
シャーストラは、これらの投影を取り除き、真の自己認識へと導くためのプラマーナとして機能します。
◎アートマーはすでに知られている、しかし、物としてではなく
シャンカラは、ātmāが、天国のように全く未知の存在ではないと強調します。
もし未知であれば、「私は悲しい」「私は限りがある」といった感覚は生まれません。
これらは、私たちが既にātmāを認識しているが、それを誤って認識していることから生じます。
ātmāは、常に自ら明らかであり、直の知識[aparokṣa]です。
シャーストラは、このātmāの誤った観念や投影を修正するためにあり、その役割を果たすことで、プラマーナとしての地位を確立します。
クリシュナは、肉体は滅びるが、肉体に宿るātmāは、捉えられる対象物ではないもの[aprameya]であり、それゆえに不滅[nitya]であると述べます。
どんな対象物も滅びますが、対象物ではないātmāは永遠です。
時間にとらわれず、滅びることがありません。
クリシュナがアルジュナに「ですから戦いなさい[tasmāt yudhyasva bhārata]」と言ったのは、単なる命令ではありません。
シャンカラは、アルジュナの悲しみ[śoka]と妄想[moha]という障害[pratibandha]を取り除くための言葉だと説明します。
アルジュナは、戦場から逃げ出そうとするほど、絶望感に打ちひしがれていました。
クリシュナの言葉は、彼が本来なすべきこと、すなわち、戦うという行為をするためにありました。
このギーター・シャーストラは、特定の儀式や行為を命じるカルマ・カーンダのようなプラヴルッティ・シャーストラではなく、ニヴルッティ・シャーストラであり、モークシャ・シャーストラです。
ここでニヴルッティは、無知に根差した悲しみや妄想というサムサーラの原因を取り除くことです。
◎知識の妨げを取り除くこと
ギーター・シャーストラは、悲しみ[śoka]と妄想[moha]から生じる、サムサーラの原因である無知を取り除きます。
クリシュナがギーターを説いたのは、まさにその無知を晴らすためでした。
クリシュナがアルジュナに「戦いなさい」と促したのは、単に戦場での戦いを命じたのではなく、アルジュナ自身の義務を果たしなさいという意図がありました。
ギーターの教えは、個人の状況に応じて適用されるべきです。
例えば、子育てに時間を取られ、ātmāの探求ができないと悩む人がいれば、クリシュナは「子供の世話をしなさい」と助言するでしょう。
また、妻から逃れるためにサンニャーシーになろうとする人には、そのような目的でサンニャーサを利用せず、まずは家庭での義務を果たすよう促すかもしれません。
クリシュナが関心を持っていたのは、あくまでもダルマでした。
「戦いなさい」という表現は、単に当時の戦場という文脈に合わせたもので、クリシュナが戦争自体に興味があったわけではありません。
私たちは、「ギーターが戦いを命じているから戦うべきだ」と誤解すべきではありません。
ギーターの本当の目的は、悲しみを取り除くことです。
ギーターの教えには、文脈を正しく理解しないと誤解されがちな部分があるため、その真意を深く理解することが重要です。
意図する意味を人々が勘違いしませんように。