अविनाशि तु तद्विद्धि येन सर्वमिदं ततम् ।
avināśi tu tadviddhi yena sarvamidaṃ tatam |
विनाशमव्ययस्यास्य न कश्चित्कर्तुमर्हति॥२.१७॥
vināśamavyayasyāsya na kaścitkartumarhati||2.17||
永遠不滅で、プラマーナで知られず、体を支える人にとって
その支える体は終わりあるもの、故にバラタの子孫よ 戦え![2-18]
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わたし[アートマー]は、イーシュワラでさえも滅ぼす事は出来ない、サットヴァストゥが明らかとなりましたが、ここでまた、疑問が生じます。
Q1.全ての物が、サットに頼るなら、頼っているアサットは、サットと同じ質、真実になりませんか?
(夫婦がよく似るように、一緒にいつもあるものは、性質が移るのではないでしょうか?)
A.いいえ、サットとアサットには、関係がありません(2つの分かれたものではない)。
土と器は関わりはありませんが、器と器の様にある種の経験出来るリアリティー[ヴャーヴァハーリカ・ミッテャー]があります。
同じリアリティーに属するものであれば、関わり合うことができ、1つがもう1つに属性を与える事が出来ます。
私達は、考えに移る世界を「事実」と見ますが、よく見ればその認識は、3つのレヴェルのリアリティーからなる認識です。
1.主観的なリアリティー[プラーティバーシカ]
2.客観的なリアリティー[ヴャーヴァハーリカ]
3.これらを支えるリアリティー[パーラマールティカ]
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土と器の間に関わりがない様に、サットとア・サットの間には、関わり[ヴャーヴァハーリカ]がありません。
そこには、ただ土が、つまり存在[サット]があるだけです。
あなたが「これは体です」と言う時、正確に言うとそれは何ですか?
骨格ですか?皮膚ですか?肉ですか?血液ですか?細胞ですか?DNAですか?
体と呼べるものは何1つなく、それら全が合わさったものが体です。
また別の方法で見るなら、鉱物やカルシウムやリンに他ならず、それぞれの構成要素が、多くの他のものに頼っているので、肉体はア・サットです。
ヴェーダーンタのモデルでは、5つの要素「空間、風、火、水、土」です。
どの様に肉体を見ようとも、それはア・サットです。
この詩で3つの事実が伝えられました。
「肉体は無数で、わたしは1つである」
「わたしに終わりはなく、全ての体の後ろに”在る”」
「滅ぼされ得ないということ」
いつも存在するわたしが、アートマーです。
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クリシュナ神は、「すべきことをしなさい、戦いなさい」と言いました。
アルジュナがすべきことは、この世界の秩序[ダルマ]を守ることでした。
比較上の意味の破壊と、完全な破壊、2つの破壊[ナーシャ]があり得ます。
同様に、比較上と絶対的な永遠があり、この詩で使われている、永遠[ニッテャ]と、破壊されないもの[アナーシー]は、死や時間から絶対的に自由なものを意味しています。
知られる事がないもの[ア・プラメーヤ]という、もう1つ別の形容詞が使われます。
1.知る主体[プラマートゥル(प्रमातृ pramātṛ)]
2.知られる対象[プラメーヤ(प्रमेय prameya)]
3.知る手段[プラマーナ(प्रमान pramāna)]
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1.知覚(5つの感覚器官)
①五感[プラッティヤクシャ]
②サークシー・プラッテャクシャ(空腹感etc)
2.知覚から得たデータが元
①推理[アヌマーナ]
②推測[アルターパッティ]
③例え話[ウパマーナ]
④無いことの理解[アヌパラブディ]
a. 人の思考からの言葉[パウルシェーヤ]
b. 人の思考からではない言葉[アパウルシェーヤ]
1.他のプラマーナと相反してはならない[अबाधितम्]
目の前の器が2つに見えるが、触ったら1つ、視覚と触覚が相反している。
視覚プラマーナである視覚の欠陥を、メガネなどで補正する必要がある。
2.他のプラマーナとかぶらない [अनधिगतम्]
目は、色・形を明かすもの、耳は、音を明かすもの、それぞれのエリアでそれぞれのプラマーナがある。
3.プラマーナを使う人にメリットをもたらす[फलवत्त्वम्]
これは、言葉[シャブダ]・プラマーナの必要条件。
聞き手の役に立つ新しい情報を提供するものであること。
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どの様な、知られる対象[プラメーヤ]も永遠ではありません[ア・ニッテャ]。
知られる物、見られる物は全て、ただ時間と空間の枠の中にあります。
土で出来た器は、わたしに見られる物、それは、毎秒変化し、決して同じものでありません。
時間は、変化をもたらす要素なのです。
わたしは、知る対象になり得ません。
わたし[アートマー]が知る対象ではないのに、なぜ、わたしを知る為に学ぶのでしょう?
全ての肉体は破壊の対象[アニッテャ]です。
全ての体を得るわたしは永遠[ニッテャ]です。
わたしは知識の対象ではない[アップラメーヤ]です。
知る手段[プラマーナ]を使い、知られるものではありません。
器や、植物や、体の様に知られる物のの1つではありません。
わたしは、ヴェーダを通してでさえ知られることはないのです。
ヴェーダーンタの教えを聞く前に、わたしは、そこに在らねばならないものです。
わたしという存在は、ヴェーダの様なプラマーナでも、知覚や推理でも知られることはありません。
探求は、探求するわたしが在る時にだけ可能です。
アートマーは「知識の対象」としては捉えられない。
しかし、知られていないものではありません。
それは、いつもそれ自身で明らかです[स्वतःसिद्ध svataḥ-siddha]
「私は存在する。I am.」という知識はいつもで明らで、既に自己証明されています。
私は既にアートマーを知っているのなら、何故ヴェーダーンタがプラマーナになり得るのか?
それは、私についての間違った観念を取り除くので、プラマーナの地位を持つのです。
アートマーの上に重ねられた全ての投影を取り除くことに関してのみ、プラマーナ・トヴァを持ちます。
知識は、無知を取り除くことに他ならず、無知の上に投影されたものでありえません。
無知を取り除くことだけが必要なのです。
ヴェーダーンタ・シャーストラが、その無知を取り除くことができます。
この詩の中でクリシュナは、全ての肉体は滅びるものではあるが、肉体に宿るものであるアートマーは、捉えられる対象物・客体ではなく、捉えるもの主体であるので(ここでは個人という主体[プラマーター]ではなく、真意としての主体)、滅びるものではないと言っています。
そして、最後にクリシュナは「ですからアルジュナよ、戦え!」と言って締めくくりますが、これはアルジュナに戦えと命令したのではないとシャンカラは言います。
クリシュナは戦いに従事することをすすめたのではなく、もちろん懇願でもなく、アルジュナの障害[プラティバンダ]である悲しみ、妄想を取り除こうとしたのです。
クリシュナは、ただただダルマでした。
「子育ては大変です。私は子供を育てるのをやめて、自分自身を探求したいのです」と、もし誰かが言うなら「子供の世話をしなさい」とクリシュナは言います。
たまたま戦場にいたアルジュナに「するべきことを、しなさい」とクリシュナは言ったのでした。
ギーターの中には、この場面の様に、理解すべき場面が幾つもあります。
意図する意味を人々が勘違いしませんように。