य एनं वेत्ति हन्तारं यश्चैनं मन्यते हतम् ।
ya enaṃ vetti hantāraṃ yaścainaṃ manyate hatam |
उभौ तौ न विजानीतो नायं हन्ति न हन्यते ॥२.१९॥
ubhau tau na vijānīto nāyaṃ hanti na hanyate ||2.19||
自分自身を殺す者だと考える人も、殺される物だと考える人も、両者が知らない
自分自身は、殺しも殺されもしない[2-19]
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この詩は、カタ・ウパニシャド第1部2章19節から引用されています。
हन्ता चेन्मन्यते हन्तुं हतश्चेन्मन्यते हतम् ।
उभौ तौ ना विजानीतो नायं हन्ति न हन्यते॥१-२-१९॥
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「シュルティは、知識の道具[プラマーナ]で、それは証言と同じ意味を持ちます。バガヴァーンクリシュナが、述べてきた事をサポートする為、カタ・ウパニシャドから2つの詩を取り上げます。」
シャンカラは、この詩の解説をこの様に述べはじめます。
ある世代から、次の世代へと聞いて受け継がれたものがシュルティ、誰からの考えに生まれたものがスムルティと呼ばれます。
シュルティは、私達が既に持っている6つの知識の道具[プラマーナ]では明かせないエリアを明かすものですから、プラマーナの地位を持っています。
色を知るには、目に委ねるしかないように、何が何たるかに関する知識は完全にシュルティに委ねます。
そして、それは他のプラマーナによる証明は必要なく、大切なことは、他のどんなプラマーナにも矛盾していないということです。
矛盾していないことを証明するために、方法論が必要なのです。
クリシュナはカタ・ウパニシャドの詩を引用し、自分自分は、誰かを傷つけ、滅ぼすという行いの主体でもなければ、誰かに、傷つけられる行いの対象でもない。
イーシュワラですら私を滅ぼすことが出来ない。
完全に、行いと結果から自由な存在、それが本来の私[アートマー]だと教えます。
知識により、全ての行い[カルマ]を手放した人は、どんな行いもしません。
人の持つ「私は行いをする人」という観念は、賢者とてあります。
知識を得た行い手(賢者)は、行いをしますが、私は行い手[カルター]ではないということを知る人です。
クリシュナが話していようと、ヴャーサが書いていようと、シャンカラが解説していようと、知識を得た人が何をしようとも、そこには行い手[カルター]がいます。
しかし、自分をカルターとして見ていない人、知識を得たカルターがいます。
私は行い手という観念、エゴ[アハンカーラ]は、恐れる様なものではありません。
すべき事は、私[アートマー]を行いをする人、という無知を取り除く事だけです。
「私自身は世界に影響される者」「この世界は、私には余りにも耐えがたい」と考える人は、わたしを理解していません。
世界はあなたにとって耐えがたい事はありません。
世界はあなたであり、そして、あなたは世界から自由です。
①イーシャ・バーシャー・ウパニシャド
②ケーナ・ウパニシャド
③カタ・ウパニシャド
④ムンダカ・ウパニシャド
⑤マーンドゥキャ・ウパニシャド
⑥タイティーリヤ・ウパニシャド
⑦チャーンドギャ・ウパニシャド
⑧ブルハダーランヤカ・ウパニシャド
⑨プラシナ・ウパニシャド
⑩アイタレーヤ・ウパニシャド