न जायते म्रियते वा कदाचिन्नायं भूत्वा भविता वा न भूयः ।
na jāyate mriyate vā kadācinnāyaṃ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ |
अजो नित्यः शाश्वतोऽयं पुराणो न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥२.२०॥
ajo nityaḥ śāśvato'yaṃ purāṇo na hanyate hanyamāne śarīre ||2.20||
これは決して生まれず、死ぬこともない。ずっと存在し、再び存在しなくなることもない。
これは生まれていないし、永遠で、どんな変化も体験せず、いつも新しいもの。
肉体が滅びる時も滅びない[2-20]
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この詩はトリシュトゥブ韻律(11,11,11,11)で、カタ・ウパニシャドから、ほぼそのまま引用されています。
न जायते म्रियते वापश्चित् नायं कुतश्चिन्न बभूव कश्चित् ।
अजो नित्यः शाश्वतो यं पुराणः न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥1-2-18॥
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アートマーは、変化しないもの[アヴィックリヤーअविक्रिया]なので、どんな行いもしないし、行いの対象でもありません。
行為が為される為には、行為をする人に何かしら変化があり、その対象物も同じには留まりません。
例えば、水は温められるなら、温められるという行為の対象ですが、その後同じではありません。
もし、わたし[アートマー]が変化するものなら、主体にも対象にもなり得ますが、アートマーは、どの様な変化も請け負わないので、主体、客体にカテゴライズされ得ません。
クリシュナは2つのポイントを主張します。
アートマーは、生まれないし、死にもしもない、誕生や、死の様な変化はありません。
変化[ヴィカーラ]には、土から器の様な変化[スヴァルーパ・ヴィカーラ]と、種が植物の形になる変化[グナ・ヴィカーラ]の2種類があります。
すなわち、存在しないものから、存在への誕生はありませんし、ある形で存在していて、別の形を装うという誕生もありません。
アートマーは全く変化を体験しない、生と死はないということです。
又、アートマーは再び存在しなくなるものではありません。
死とは、「ある物がずっと存在していて、もう存在しなくなる」という事なので、ここでは『再び』という言葉を使います。
この様な状況はアートマーにはありません。
シャンカラによって2つの解釈がされています。
生まれてはいない[アジャハ]は、アートマーが、
以前もアートマーは在り、今も在り、これからもずっと同じ様に在り続けます。
アートマーを説明する別の言葉「プラーナ[पुराण ]」は、一般的には太古という意味ですが、ここでは「いつも新鮮であるもの・ever fresh」を表しています。
以前、新鮮であったアートマーは、今も新鮮で、いつも新鮮ですから、老い[
肉体が滅びる時でさえアートマーは滅びないとは、この詩では「変化しない[ヴィパリナーマ]」という意味で捉えます。
反対に、肉体は変化の対象です。
私はこんなものという観念を持つエゴ[アハンカーラ]が、行いをする時、エゴの意図と一致しながら、行いを行うのはその肉体です。
足が動き、手が動き、体がある程度伸び縮みし、多くの変化を体験は、変化する為にあります。
1.発生[アスティ・अस्ति]
2.誕生[ジャーヤテー・जायते]
3.成長[ヴァルダテー・वर्धते]
4.変化[ヴィパリナマテー・विपरिणमते]
5.老い[アパクシーヤテー・अपक्षीयते]
6.崩壊[ヴィナッシャティ・विनश्यति]
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正しく認識していない為、この6つの変化を伴う肉体と、アートマーが一緒くたになります。
アートマーは、本質的な属性として肉体を持つと考えられていますから、わたしが肉体と同様になってしまいます。
必要な見極めは、「肉体は変化の対象ですが、アートマーはそうではない」ということ。
シュルティから引用された2つの詩の意味は、アートマーは、どんな変化からも自由であるということです。
また、アートマーは、行いを演じることでの変化を体験することもありません。
アートマーを身体や考えだという混乱から、悲しみ[アショーチャ]があります。
満足[アーナンダ]であるアートマーは、悲しむ理由のないもの[アショーチャ]です。