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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章20番目の詩

न जायते म्रियते वा कदाचिन्नायं भूत्वा भविता वा न भूयः ।

na jāyate mriyate vā kadācinnāyaṃ bhūtvā bhavitā vā na bhūyaḥ |

अजो नित्यः शाश्वतोऽयं पुराणो न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥२.२०॥

ajo nityaḥ śāśvato'yaṃ purāṇo na hanyate hanyamāne śarīre ||2.20||

これは決して生まれず、死ぬこともない。ずっと存在し、再び存在しなくなることもない。

これは生まれていないし、永遠で、どんな変化も体験せず、いつも新しいもの。

肉体が滅びる時も滅びない[2-20]

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この詩はトリシュトゥブ韻律(11,11,11,11)で、カタ・ウパニシャドから、ほぼそのまま引用されています。

न जायते म्रियते वापश्चित् नायं कुतश्चिन्न बभूव कश्चित् ।
अजो नित्यः शाश्वतो यं पुराणः न हन्यते हन्यमाने शरीरे ॥1-2-18॥

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アートマーは、変化しないもの[アヴィックリヤーअविक्रिया]なので、どんな行いもしないし、行いの対象でもありません。

行為が為される為には、行為をする人に何かしら変化があり、その対象物も同じには留まりません。

例えば、水は温められるなら、温められるという行為の対象ですが、その後同じではありません。

もし、わたし[アートマー]が変化するものなら、主体にも対象にもなり得ますが、アートマーは、どの様な変化も請け負わないので、主体、客体にカテゴライズされ得ません。

クリシュナは2つのポイントを主張します。

アートマーは、生まれないし、死にもしもない、誕生や、死の様な変化はありません。

変化[ヴィカーラ]には、土から器の様な変化[スヴァルーパ・ヴィカーラ]と、種が植物の形になる変化[グナ・ヴィカーラ]の2種類があります。

すなわち、存在しないものから、存在への誕生はありませんし、ある形で存在していて、別の形を装うという誕生もありません。

アートマーは全く変化を体験しない、生と死はないということです。

又、アートマーは再び存在しなくなるものではありません。

死とは、「ある物がずっと存在していて、もう存在しなくなる」という事なので、ここでは『再び』という言葉を使います。

この様な状況はアートマーにはありません。

シャンカラによって2つの解釈がされています。

1.ずっと存在していたものが、存在しなくなることはない[भूत्वा   अभविता   न]。

2.以前存在していなかったもの(無)が、後に存在するということはない[अभूत्वा  भविता   न  ]。

生まれてはいない[アジャハ]は、アートマーが、実態のないものではないことを意味します。

アジャハを永遠[ニッテャ]であると言い、移り変わりながら、あり続けるのではないか?という疑いを除くために、変化しないもの[シャーシュヴァタ]と説明されます。

以前もアートマーは在り、今も在り、これからもずっと同じ様に在り続けます。

アートマーを説明する別の言葉「プラーナ[पुराण ]」は、一般的には太古という意味ですが、ここでは「いつも新鮮であるもの・ever fresh」を表しています。

以前、新鮮であったアートマーは、今も新鮮で、いつも新鮮ですから、老い[ヴルッティ]、衰え[アパクシャヤ]の可能性も否定されます。

肉体が滅びる時でさえアートマーは滅びないとは、この詩では「変化しない[ヴィパリナーマ]」という意味で捉えます。

反対に、肉体は変化の対象です。

私はこんなものという観念を持つエゴ[アハンカーラ]が、行いをする時、エゴの意図と一致しながら、行いを行うのはその肉体です。

足が動き、手が動き、体がある程度伸び縮みし、多くの変化を体験は、変化する為にあります。

肉体における6つの変化[バーヴァ・ヴィカーラ]

1.発生[アスティ・अस्ति]

2.誕生[ジャーヤテー・जायते]

3.成長[ヴァルダテー・वर्धते]

4.変化[ヴィパリナマテー・विपरिणमते]

5.老い[アパクシーヤテー・अपक्षीयते]

6.崩壊[ヴィナッシャティ・विनश्यति]

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正しく認識していない為、この6つの変化を伴う肉体と、アートマーが一緒くたになります。

アートマーは、本質的な属性として肉体を持つと考えられていますから、わたしが肉体と同様になってしまいます。

必要な見極めは、「肉体は変化の対象ですが、アートマーはそうではない」ということ。

シュルティから引用された2つの詩の意味は、アートマーは、どんな変化からも自由であるということです。

また、アートマーは、行いを演じることでの変化を体験することもありません。

アートマーを身体や考えだという混乱から、悲しみ[アショーチャ]があります。

満足[アーナンダ]であるアートマーは、悲しむ理由のないもの[アショーチャ]です。