वेदाविनाशिनं नित्यं य एनमजमव्ययम् ।
vedāvināśinaṃ nityaṃ ya enamajamavyayam |
कथं स पुरुषः पार्थ कं घातयति हन्ति कम् ॥२.२१॥
kathaṃ sa puruṣaḥ pārtha kaṃ ghātayati hanti kam ||2.21||
プルターの息子よ。これ(自分自身)を不滅で、時間に捕らわれず、生まれないもの、老いないものと知る人が
どの様に、誰を殺しますか?また、殺すことを強いるのですか?[2-21]
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前の詩で見たように、アートマーは殺しもしないし、殺されもしません[ナ ハンティ、ナ ハンニャテー]。
アートマーは、殺すという行い[ハナナ クリヤー]を含む、あらゆる行い[クリヤー]の主体、対象でもありません。
その理由は、アートマーが変化するものではないからと、クリシュナは説明しました。
生まれない[アジャ]、どんな種類の衰えも体験しない[アッヴャヤ]、死や破壊の対象ではない[アヴィナーシ―]、時間に捕らわれないもの[ニッテャ]である、すなわちバーヴァ・ヴィカーラを持たないと結論付けました。
◎人は誰を殺すのか、また誰に殺すことを強いるのか?
2種類の行いがあります。
1つは、私がする行い、もう1つは、私が他者にさせる行いです。
2人とも行いをしますが、ここで理解すべき事は、アートマーは、どんな行いもしないし、望むことすらしません。
殺しもしないし、他の誰かに殺させたりしません。
アートマーは全ての願望の本質[スヴァルーパ]です。
願望は名前と形[ナーマルーパ]、考えで、その考えは何かと絞り込むなら、アートマーに行き着き、そこには考えなどありません。
あらゆる考えや欲望、行いをする人という観念もミッテャーです。
行いをする人は誰か?と分析するなら、行い手は、意識[チャイタンニャ]に他なりません。
行い手は、意識の中に消えてしまい、そこには全くいないということです。
行い手がある時、意識はありますが、その意識の中に、行い手はなく、ただドラマがあるだけです。
本当の行い手ではなく、ただ「まるで」行い手がいるだけです。
「まるで」聞き、「まるで」話し、「まるで」歩き、「まるで」立ちます。
アートマーはいつも自由で、行い手は全くありません。
「私は行いをする人である」という観念が行いの源です。
行い手[カルター]なしに、行い[カルマ]などありません。
行いをする人であるという観念[カルトゥルットヴァ]なしに、行いなどありません。
この行いをする人であるという観念は、行いが行いであるために、体験する結果[カルマパラ]が、カルマパラである為に、必要な、血、骨、そして肉を与えるものです。
この全サイクルが、中心人物である行い手[カルター]に基づいています。
◎誰が行いをする人なのか?
疑問が起こるかもしれません。
全ての行いを手放した人[サルヴァ・カルマ・サンニャーシー]は、どんな行いも全く行わないのでしょうか?
サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、「私は行いをする人です」という観念を持っていない人です。
その人には、アートマーにおける行い手の観念はありません。
単に行い[カルマ]をしないことが、サルヴァ・カルマ・サンニャーシーではありません。
例え、どんな行い[カルマ]もしないとしても、「私は行いをする人である」という観念があるならサムサーリーです。
サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、知識[ニャーナ]で、全ての行い[カルマ]から完全に自由な人です。
もし何か行い[カルマ]が為されても、ニャーニーにとって起こっている事は、考えに支えられた感覚器官が、それぞれの活動エリアにただ従事していることです。
ニャーニーは、自分自身を行い手[カルター]と見てはいません。
これがサルヴァ・カルマ・サンニャーシーの本当の意味です。
その人は知識を持つ人[ヴィッドヴァーン]と呼ばれます。
この特別な発見の中に、全ての祈りが実り、この発見の為だけに、祈りや、行いが為されました。
カルマヨーガはこの為だけにあります。
ジャナカ王という王様は、知識を得た人と見なされていましたが、王国の統治者という役割があり、その役割に悩まされてはいませんでした。
ジャナカ王の様に、知識を得ていながら、社会の中で生きていくことも出来ますし、人生の4つ目のステージを生きる人[サンニャーシー]、どちらの生き方も可能です。
ニャーニーは、どんな行いをしようがしまいが、その行いに影響されたりしません。
◎私は行いをする人ではない
もしアートマーが行い手[カルター]なら、常にカルターでなければなりません。
それがアートマーの本質なら、行いをする人として、いつも何かをすべきですが、そうでありません。
時々、後ろに退き、全く何もせずただ体験をする時もあります。
体験者という状態[ボークトゥルットヴァ]だけを見て、行い手という状態[カルットゥルットヴァ]は見ません。
同様に、もしボークトゥルットヴァが、アートマーの本質なら、アートマーはいつも体験する人[ボークター]でなければなりませんから、アートマーは、カルターでもボークターでもありません。
また、行い手も、体験者もない時、例えば、2つの考えの間の様に「私という感覚」が全くない時もあります。
◎アートマーは知ることができるのか?
「私は行い手ではない」という知識を、私はどの様に得ることができるのでしょうか?
アートマーの知識は、主体そのものについての無知を取り除きます。
自分自身についての無知があると、認識している人だけが、無知を取り除くことができます。
この知識が「私は行いをする人ではない」です。
この考え[ヴルッディ]が、自分自身についての無知を滅ぼすことができます。
その真実についての無知は、教え[ウパデーシャ]でもたらされる考え[ヴルッティ]によって取り除かれます。
そのヴルッティは、その仕事を終えると、無知と共に消え去ります。
その為の完璧な、知識が定着する法論[プラックリヤー]がありますが、その知識には、ヴェーダーンタの言葉が働く成熟した考えが必要です。
ギーターでは、ヴェーダーンタに加え、
長年培ってきた自分イズム、自分の信念を確証するために聖典を探求するのではなく、誠実に真実にコミットします。
「私は行い手ではない」という真実を何度も熟考することが、すべきことです。
◎知的な誠実さの重要性
ヴェーダーンタは、確かなでないことを提案しているのでもなく、いつかモークシャがあると、約束しているのでもなく、既に私はモークシャで、アカルターであり、滅びる事のないもの[アヴィナーシー]と言います。
その言葉をしっかり分析するなら、そこに否定などありません。
例えば、「太陽は昇る」と、知覚を元に結論付けますが、実際は地球が回っています。
「太陽は昇る」という、知覚レベルの結論を否定します。
同様に、孔雀の羽根に様々な色を見ますが、実際、色の現れは、光を反射する異なるプリズムのような構造の為です。
これらは、知識による否定[बाधाバーダー]です。
知覚そのものを否定しているのではなく、地球が自転しているので太陽が昇るように見える、孔雀の羽根そのものに色がある、ということを否定します。
同様にヴェーダーンタも、アートマーにおける「私は行い手であるという観念[カルトゥルットヴァ・ブッディ]を知識によって否定します。
体験はそのままに、
ニャーニーは何をしていても、「私は行いをしない」ということを知っています。
これが知識[ニャーナ]で、それを失う事は決してありません。
◎これ以上なされるべきことはない
サルヴァ・カルマ・サンニャーサとは、「行いをしない」のではなく、行いの中に、行いの無い事を理解しているのです。
例えば、「料理をする」という行いを見るなら、台所に立つ、米を研ぐ、水を流す、、、という行いの連続です。
それらどれ1つとっても「料理をする」ではありません。
「料理をする」という行いに実体はないのです。
しかし、自由意志を使ってする行為[カルマ]はあります。
このヴェーダーンタの知識は、行いを通してのみ培われます。
モークシャとは、カルマの束縛からの自由です。
サルヴァ・カルマ・サンニャーシーは、私はアカルター、いつも満ちている[プールナ]という知識[ブッディ]を持ち、為されるべき事を全てしてきました[クルッツナ・カルマクルトゥ4-18]。
その人が、何をしていようと、