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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章23番目の詩

नैनं छिन्दन्ति शस्त्राणि नैनं दहति पावकः ।

nainaṃ chindanti śastrāṇi nainaṃ dahati pāvakaḥ |

न चैनं क्लेदयन्त्यापो न शोषयति मारुतः॥२.२३॥

na cainaṃ kledayantyāpo na śoṣayati mārutaḥ||2.23||

武器がこれ(自分自身)を切ったり、火がこれを燃やしたりしません。

水がこれを濡らしたり、風がこれを乾かしたりもしません[23]

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クリシュナ  は、自分自身[sat] にとって存在がないことはあり得ない、すなわち3つのどの時間においても否定の対象ではない[abādhitam satyam]と述べています。

否定されることができないものこそが真実であり、自分自身がまさにこのsatであるため、人は自分自身を否定できません。

なぜなら、否定しようとしているその人こそがサッテャであり、唯一否定ができないものだからです。

否定の対象でないものだけがアートマーでありえます。

「私はいない」などと誰も言えませんから、自分自身を否定する事はなどできません。

時間にとらわれているものだけがアサトであり、時間から自由なものがサトです。

このことが、前の詩で説明されました。

ちょうど古い服を捨てて新しい服を着るように、体に宿る人[dehī]はそれを捨て、別の体を装いますが、ジーヴァとアートマーは、一つの同じものであり、どちらも否定の対象ではありません。

ただし、「私は限られている」という観念[jīvatva]は否定され得ますが、個人の本質[svarūpa]は否定されることはありません。

第2章19節で、これはアートマーがあらゆる破壊という行いの対象ではない、すなわち否定の対象ではないという、同じ論点を別の形で示したものです。

◎アートマーは破壊できない

武器が、アートマーを滅ぼせないことが語られます。

武器には、投げられる武器[astra]と手に持つ武器[śastra]の二種類がありますが、この詩ではシャストラ が両方を示しています。

全てを現すものが、何らかの物として現されたりできません。

自分自身が全世界を、物として明かしています。

アートマーは、どんな物にも明かされることはありません。

アートマー以外の全てのものは、アートマーのあとに輝いていますから、明かされるものが、明かす人を、明かすことはないのです。

形のない意識、唯一の源がアートマーで、他の全てのものは、意識の対象物です。

アートマー は、特定の形や器官を持たないため、発作を起こすこともありません。

それは全ての対象の主体であり、対象となるものではないため、破壊を含むいかなる行いの対象ともなり得ず、武器によって殺されることはありません。

次に、破壊をもたらす元素の影響が否定されます。

火は、肉体を燃やすことはできても、アートマーを破壊できません[na enaṁ dahati pāvakaḥ]。

スークシュマ・シャリーラ ですら、火で破壊することはできません。

同様に、水は、アートマーを水浸しにすることは言うまでもなく、湿らせることすらできません[āpaḥ enaṁ na kledayanti]。

なぜなら、アートマーは湿らすという行いの主体であり、その対象とはなり得ないからです。

風もまた、アートマーを乾かすことはできません[na enaṁ śoṣayati mā́rutaḥ]。

南風[mārutaḥ]は、熱帯の熱い空気のように脱水を引き起こすものですが、乾燥させることでアートマーの死をもたらすことはありません。

最後に、武器やそれらが作られている金属によって示される土[pṛthivī]も、アートマーを破壊しません。

このように、クリシュナ は五大元素(空間、風、火、水、土)の全てがアートマー には影響を与えられないと言います。

◎世界の5元素のモデル

シャーストラ の至る所に見られる独特なモデルは、世界は五元素、すなわち空間[ākāśa]、風[vāyu]、火[agni]、水[āpaḥ]、そして土[pṛthivī]で構成されているとされます。

これらの元素には、思考や感覚器官である、かすかな形と、物理的な体や世界である、粗い形があります。

肉体は、これら五つの粗い元素から創られ、空間を占有し、血液中の風(酸素)を含んでいます。

また、体温という火を持ち、その形は水によるものです。

さらに、カルシウムや炭素など、土に見られるものと同じ鉱物を含んでいます。

この元素モデルは世界を理解するための手段であり、それぞれの元素[bhūta]は全て同じレベルのリアリティを享受しています。

重要な原則として、同じレベルのリアリティに属しているものだけが、お互いに影響を与え合うことができます。

例えば、物理的な肉体が他の物理的な肉体を破壊できるように、同じ物質で同じレベルのリアリティに属する武器は肉体を傷つけたり破壊したりできます。

しかし、物と影は2つの異なる秩序のリアリティに属しているため、お互いに影響を与えたり破壊し合ったりすることはできません。

1つがもう1つに影響を与えるためには、両方が同じレベルのリアリティを共有している必要があります。

◎破壊の本質

五元素が同じリアリティの秩序に属していても、、空間は、他の元素と同じリアリティの秩序に属しながらも、それらの影響を受けません。

風は空間を乾かせず、火は燃やせず、水は水浸しにできません。

爆弾やピストルを含む武器によって空間を破壊することはできず、空間自体が汚染されることもありません。

これは、空間が形を持たないためです。

一方、風は原子を意味し、原子はある構造を持つため、常に新しい構造に変えられることによって破壊され得ます。

例えば、水素と酸素が水に変わるように、構造を持つものは変化します。

「死」という言葉は、特有の構造が変化によってもはや存在しない状態を指します。

シャンカラ は、部分、属性、構造を持つ物は何であれ破壊され得ると言います。

空間はこれらのいずれも持たないため、同じレベルのリアリティを共有する他の元素によっても破壊されません。

同様に、アートマー もまた、手足などの部分、属性、構造から自由です。

それは、この全世界をとらえる純粋な意識であり、意識の対象となる全てのものに気づいています。

この意識、アートマー は、とらえられることができないため、武器や破壊の道具によっても破壊されることはありません。

さらに、アートマー と同じレベルのリアリティに属するものは他に存在しません。

◎自分自身で明らかなアートマー

アートマー  はサッテャであり、自分自身で明らかで、その存在を明かすために何も必要としません。

アートマーだけが、自発的に輝き、他の全てのものはアートマーによって輝かされています。

自ら明らかなものは何にも頼らずに存在していますが、自分自身で明らかでない物質は全て、他の物質に頼っており、最終的には意識、すなわちアートマー に頼っています。

このように、全ての創造物、全世界はアサトであり、アートマーだけがあります。

サトがアサトによって破壊されることはありえず、空間、風、火、水、土といった元素もアサトであるため、サトであるアートマーを破壊することはできません。

鏡に映った自分が、しかめっ面で今にも殴りかかりそうに見えても、それはサトである自分自身に影響を与えません。

逃げたとしても、それは全て考えの中でのことであり、鏡の像はアサトなので、サトである私に何もできないからです。

しかし、ここで、子供を生むことができない女性の息子[vandyā-putra]のように、存在しないものかもしれないという疑念が生じ得ます。

「アートマーは存在しない、ゼロ[śūnya]ではないか?」という問いにつながりますが、シャンカラの解説を伴う次の詩が、この疑いを鎮めます。