2018/06/16
अच्छेद्योऽयमदाह्योऽयमक्लेद्योऽशोष्य एव च ।
acchedyo'yamadāhyo'yamakledyo'śoṣya eva ca |
नित्यः सर्वगतः स्थाणुरचलोऽयं सनातनः॥२.२४॥
nityaḥ sarvagataḥ sthāṇuracalo'yaṃ sanātanaḥ||2.24||
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これ(自分自身)は切られたり、燃やされたり
濡らされたり、乾かされたりする事は出来ません。
それは変化せず全てに行き渡り
安定して、不動で、永遠です。[24]
この詩の中の、これ[アヤム]という言葉は
存在しないアートマー、すなわち
”無い”[シューンニャ]ではなく
自分自身で明らかで、自分自身で存在する
アートマーのことを言っています。
「わたしがいる」と言う為に
知覚、推理、推測、例え話、あるいは
あなたが”無い”を確かめられる[アヌパラプディ]
と呼ばれる知る為の道具は要りません。
”無い”を認識する為ですら
存在する何者かを必要とします。
例えば、私の手の中にコインがない事を知る為に
知覚と、知覚を使う人が必要です。
知る為の道具は、それを使う誰かが必要です。
肉体が、昨日と同じではないと知覚する為ですら
知覚を得る道具が必要です。
あなたはどうやって、お腹や腰が痛い
あるいは体が痛いという事が分かりますか?
痛みは、誰にも見せる事が出来ないので
誰もそれを確かめる事は出来ません。
それは、純粋にあなた自身の経験で
専門医ですら痛みがあるかどうか言う事が出来ません。
あなただけが目撃者、直接捉えている人です。
目撃者の知覚[サークシー・プラッテャクシャ]は
感覚器官を必要としない知覚ですが、これも知覚です。
肉体の様々な状態を知る為に
考えについても、それを知る為の知覚があります。
何かを忘れてしまったと知る事ですら知覚です。
私は知る為の道具があるので、全てが私に明らかです。
では、どの道具で「私は存在している」と知りますか?
知覚ですか?聖典ですか?
感覚器官ですか?推理でしょうか?
それら全ての前に、わたしは存在しています。
わたしが存在するので、推理する事ができ
わたしが存在するので、見たり聞いたりすることが出来ます。
わたしが存在するという事は自分自身で明らかです。
そして、わたしが存在するので
全ての知識が明かされます。
これ[アヤム]は、破壊の対象でもないもの[アッチェーデャ]
を示すとして重要な言葉です。
アートマーは、”無い”ではないので
クリシュナはそれを繰り返し続けました。
伝統的には、不妊の女性の子供は存在しない
という例え話が使われます。
アートマーは全ての存在
自分自身で存在していて
殺害されたり、燃やされたり
濡らされたり、乾かされたりすることはありません。
空間は世界の全てに行き渡りますが
アートマーには行き渡っていません。
アートマーとは意識で
アートマーは空間に行き渡っています[サルヴァガタ]。
そしてアートマーは動く事が出来ません[スターヌ]。
どうやって動く事が出来るでしょうか?
わたししかないので、動きようがありません。
揺れたりもしません[アチャラ]。
いつも同じで、いつもあり続けます[サナータナ]。
アートマーはどんなものにも
どんな方法でも影響されないので
いつも同じで、いつも新鮮で
いつも新しいのです。
この様にアートマーを知ることで
どの様な悲しみも抱く必要がありません。
「アートマーの為に泣いていません。アナートマーの為に泣いているのです」
と、あなたは言うかもしれません。
クリシュナは言います。
アナートマーは、いつも変わり続ける[アニッテャ]です。
いつも過ぎ去るもので、それを止めたくても
あなたは止める事は出来ません。
ですから、クリシュナは尋ねます。
「アルジュナよ、何にあなたは悲しむのですか?
悲しみの余地など全くありません。
為されるべき何かがあるだけです。
それをしなさい!」
この絶えず続く繰り返しが
次の詩の中でまた詠われました。