अच्छेद्योऽयमदाह्योऽयमक्लेद्योऽशोष्य एव च ।
acchedyo'yamadāhyo'yamakledyo'śoṣya eva ca |
नित्यः सर्वगतः स्थाणुरचलोऽयं सनातनः॥२.२४॥
nityaḥ sarvagataḥ sthāṇuracalo'yaṃ sanātanaḥ||2.24||
これ(自分自身)は切られたり、燃やされたり、濡らされたり、乾かされたりする事は出来ません。
それは変化せず全てに行き渡り、安定し、不動で、永遠です[24]
-
この詩の「これ[アヤム]」という言葉は、存在しないアートマー、すなわち”無い”[シューンニャ]ではなく、自分自身で明らかで、自分自身で存在するアートマー[स्वतःसिद्ध]のことを言っています。
「わたしがいる」と言う為に、知覚、推理、推測、例え話、あるいは「わたしが”無い”」を確かめられる[アヌパラプディ]と呼ばれる知る為の道具は要りません。
”無い”を認識する為ですら、存在する何者かを必要とします。
例えば、私の手の中にコインがない事を知る為に、知覚と、知覚を使う人が必要です。
知る為の道具は、それを使う誰かが必要です。
肉体が、昨日と同じではないと知覚する為ですら、知覚を得る道具が必要です。
そして、痛みや悲しみは、誰にも見せる事が出来ないので、誰もそれを確かめる事は出来ません。
それは、純粋に自分自身の経験で、専門医も痛みや悲しみがあるかどうか言う事が出来ません。
目撃者の知覚[サークシー・プラッテャクシャ]は、感覚器官を必要としない知覚ですが、これも知覚です。
肉体の様々な状態や、考えを知る為に、それを知る為の知覚があります。
何かを忘れてしまったと知る事ですら知覚で、私は知る為の道具があるので、全てが私に明らかです。
「私が在る」は、知覚や、聖典、感覚器官、推理の前に、わたしは存在してるのです。
わたしが存在するので、推理し、見たり聞いたりすることが出来ます。
わたしが存在するは、自分自身で明らかで、わたしが存在するので全ての知識が明かされます。
これ[アヤム]は、破壊の対象でもないもの[アッチェーデャ]を示すとして重要な言葉です。
アートマーは、”無い”ではないのでクリシュナはそれを繰り返し続けました。
伝統的には、不妊の女性の子供は存在しないという例え話が使われます。
アートマーは、全ての存在、自分自身で存在していて、切られたり、燃やされたり、濡らされたり、乾かされたりすることはありません。
空間は、世界の全てに行き渡りますがアートマーには行き渡っていません。
アートマーとは意識で、アートマーは空間に行き渡っています[サルヴァガタ]。
そしてアートマーは動く事が出来ません[スターヌ]。
わたししかないので、動きようがありません。
揺れたりもしません[アチャラ]。
常に同じで、常にあり続けます[サナータナ]。
アートマーは、どんなものにも、どんな方法でも影響されず、いつも同じで、いつも新鮮で、いつも新しいのです。
この様にアートマーを知ることで、どの様な悲しみも抱く必要がありません。
「アートマーの為に泣いていません。アナートマーの為に泣いているのです」と、言うかもしれませんが、クリシュナは言います。
アナートマーは、いつも変わり続ける[アニッテャ]です。
いつも過ぎ去るもので、それを止めたくても、あなたは止める事は出来ません。
ですから、クリシュナは尋ねます。
「アルジュナよ、何にあなたは悲しむのですか?悲しみの余地など全くありません。為されるべき何かがあるだけです。それをしなさい!」