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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章24番目の詩

अच्छेद्योऽयमदाह्योऽयमक्लेद्योऽशोष्य एव च ।

acchedyo'yamadāhyo'yamakledyo'śoṣya eva ca |

नित्यः सर्वगतः स्थाणुरचलोऽयं सनातनः॥२.२४॥

nityaḥ sarvagataḥ sthāṇuracalo'yaṃ sanātanaḥ||2.24||

これ(自分自身)は切られたり、燃やされたり、濡らされたり、乾かされたりする事は出来ません。

それは変化せず全てに行き渡り、安定し、不動で、永遠です[24]

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この詩は、「これ[ayam]」という言葉が示すアートマーが、存在しない(ゼロ)[śūnya]ではなく、自分自身で明らかで、自分自身で存在するものであること、その存在を証明するために知識の道具が必要ないことを説明しています。

アートマー だけが自ら明らかであり、他の全ての物はアートマーによって明らかになります。

自分自身で明らかなものは、その存在を証明するために、知覚、推理、例え話、あるいは、無いを理解する[anupalabdhi]という知識の道具を一切必要としません。

手の中にコインがないことを知覚する人が必要なように、アヌパラブディでさえ、それを使うためには、存在する誰かが必要です。

知覚に基づいた推理も、それを使う人が前提条件となります。

どんな知識の道具を使うにも、それを使う誰か、すなわちアートマーが必要です。

また、肉体の痛みや、空腹かどうかを知ることは、サークシ・プラッテャクシャ[sākṣi-pratyakṣa]と呼ばれる、感覚器官を必要としない別の種類の知覚です。

これは純粋に自分自身の体験であり、他の誰も確認できません。

同様に、あなたが自分の考えについて話すことができるのは、それを知る何らかの方法(知覚)があるからです。

何かを忘れたと知ることですら知覚です。

結論、「私がある」という事実は、知覚、聖典、感覚器官、推理という、知識の道具によって知られるのでもありません。

アートマーは、それら全てに先立って存在しており、アートマーが存在するからこそ、推理したり、見たり聞いたりすることができます。

「私がある」は自分自身で明らかであり[svataḥ-siddha]、この存在こそが全ての知識を可能にしています。

アートマーは、存在しないものではない

アートマーは、自分自身で明らか[svataḥ-siddha]な唯一の存在であり、破壊の対象ではないもの[accheda]を意味します。

アートマーは、存在しない、ゼロ[śūnya]ではなく、全ての存在の源であり、殺されたり、燃やされたり、濡らされたり、乾かされたりすることはありません。

アートマー は、時間にとらわれない永遠[nitya]であるため、全てに行き渡っています[sarvagata]。

時間にとらわれている物[anitya]は何であれ、全てに行き渡ることはできません。

例えば、空間は世界に行き渡っていますが、意識であるアートマーには行き渡っていません。

しかし、アートマーは空間に行き渡っています。

さらに、アートマーは動くことができません。

全てに行き渡るため、動く場所がないからです。

また、木のように揺れたりせず[acala]、常に同じであり続ける、永遠のもの[sanātana]でもあります。

アートマーは、どんな力や原因によっても影響されないため、いつも同じで、いつも新鮮で、いつも新しいのです。

このアートマーの知識があれば、人は悲しみを抱く理由がありません。

仮に人が「アートマーのためではなく、アナートマーのために泣いている」と主張しても、アナートマーは常に変わり続け、その過ぎ去ってしまう性質を止めることはできません。

一方、アートマー はニッテャであり、破壊する方法はありません。

クリシュナは、「アルジュナよ、悲しみの余地など全くない。すべきことをしなさい!」と問いかけています。