
अथ चैनं नित्यजातं नित्यं वा मन्यसे मृतम् ।
atha cainaṃ nityajātaṃ nityaṃ vā manyase mṛtam |
तथापि त्वं महाबाहो नैवं शोचितुमर्हसि ॥२.२६॥
tathāpi tvaṃ mahābāho naivaṃ śocitumarhasi ||2.26||
そして、もし、あなたが、アートマーのことを生まれ続けるもの、死に続けるものと思うにしても
おお!強力な武器の使い手(アルジュナ)よ、あなたは、このように、アートマーのために悲まないはずです
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この詩は、アートマーを二つの観点から、悲しむ理由が全くないことを示しています。
クリシュナは、たとえアートマーを肉体として捉え続けたとしても、悲しむに値しないと言います。
もしアートマーが常に生まれているのなら、ビーシュマや他の人々は別の形で再び生まれるため、死を恐れる必要はありません。
もしアートマーが常に死んでいるのなら、すでに死に続けているものに対して、新しく嘆くべき死などありません。
人はただ事実を見るだけです。
このように、誕生や死に関して悲しむ余地はありません。
独裁君主のドゥルヨーダナ、すなわちアダルマが
もし、アルジュナがこの戦争を避けたとて、
アルジュナが止めたくても、
アサトやアニッテャは、誰も止めることができません。
さらに、もしアルジュナが、彼らが全てアートマーであると見ることができれば、死などありません。
一方で、アートマーを肉体と見なし続けるなら、その肉体が去ることを止めることはできません。
彼らが常に生まれていると考えるならば悲しみは生じず、常に去っていると考えるならば、新しく去るという事態はないため、やはり悲しむべきことではありません。
クリシュナは、生まれるものには死があり、死んでいるものには誕生があるという、生と死のサイクルの意味においても、悲しみの余地はないと言います。
移り変わるものを、移り変わるものとして理解するなら、混乱からの悲しみはありません。
「悲しみがある」その「ある」が私、悲しみから自由なのが私です。
そのことを知るなら、例え、悲しみが起きたとしても、その悲しみに圧倒されることはありません。
