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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章26番目の詩

अथ चैनं नित्यजातं नित्यं वा मन्यसे मृतम् ।

atha cainaṃ nityajātaṃ nityaṃ vā manyase mṛtam |

तथापि त्वं महाबाहो नैवं शोचितुमर्हसि ॥२.२६॥

tathāpi tvaṃ mahābāho naivaṃ śocitumarhasi ||2.26||

そして、もし、あなたが、アートマーのことを生まれ続けるもの、死に続けるものと思うにしても

おお!強力な武器の使い手(アルジュナ)よ、あなたは、このように、アートマーのために悲まないはずです

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この詩は、アートマーを二つの観点から、悲しむ理由が全くないことを示しています。

クリシュナは、たとえアートマーを肉体として捉え続けたとしても、悲しむに値しないと言います。

もしアートマーが常に生まれているのなら、ビーシュマや他の人々は別の形で再び生まれるため、死を恐れる必要はありません。

もしアートマーが常に死んでいるのなら、すでに死に続けているものに対して、新しく嘆くべき死などありません。

人はただ事実を見るだけです。

このように、誕生や死に関して悲しむ余地はありません。

独裁君主のドゥルヨーダナ、すなわちアダルマが滅ぼされる時が来ただけです。

もし、アルジュナがこの戦争を避けたとて、ダルマの法則が滅ぼすので、彼らは死んだも同然の人々なのです。

アルジュナが止めたくても、どうすることもできません。

アサトやアニッテャは、誰も止めることができません。

さらに、もしアルジュナが、彼らが全てアートマーであると見ることができれば、死などありません。

一方で、アートマーを肉体と見なし続けるなら、その肉体が去ることを止めることはできません。

彼らが常に生まれていると考えるならば悲しみは生じず、常に去っていると考えるならば、新しく去るという事態はないため、やはり悲しむべきことではありません。

クリシュナは、生まれるものには死があり、死んでいるものには誕生があるという、生と死のサイクルの意味においても、悲しみの余地はないと言います。

移り変わるものを、移り変わるものとして理解するなら、混乱からの悲しみはありません。

「悲しみがある」その「ある」が私、悲しみから自由なのが私です。

そのことを知るなら、例え、悲しみが起きたとしても、その悲しみに圧倒されることはありません。