अव्यक्तादीनि भूतानि व्यक्तमध्यानि भारत ।
avyaktādīni bhūtāni vyaktamadhyāni bhārata |
अव्यक्तनिधनान्येव तत्र का परिदेवना ॥२.२८॥
avyaktanidhanānyeva tatra kā paridevanā ||2.28||
全ての存在するものは、はじめ現れてなく、途中で現れ、最後に(再び)現れていない
実際、何を悲しむ事があるのだろうか、バーラタよ![28]
-
元素を含む、全ての生き物のはじまりは知られていません。
それらは知覚出来ず、以前それらが何であったのか、又、死後それらに何が起こるのかを知りません。
私達は、誕生と死の間の事だけを知っています。
それは、飛んでいる弓矢の様です。
暗闇[ア・ヴャクタ]から現れ、照らされた部分[ヴャクタ]を通り過ぎ、再び瞬間、ア・ヴャクタの中に消えて行きます。
これが人生というものの全てです。
人生は、誕生と死の間を旅する、動いている矢の様で、ただ通り過ぎ、いつも動いています。
この動いている矢に悲しむ事がありますか?
どちらにしても、それをあなたは止める事は出来ません。
いつも永遠であるものは、いつもそこにあり、その間に何らかの人生ミッテャーがあります。
「ある」は、悲しみの対象ではなく、それはリアリティ、真実[サッテャ]で、限りのないアーナンダです。
全く悲しみの対象ではありません。
他の何かがあるかもしれなくても、それもまた悲しむ価値はありません。
人はただ、自分自身についての無知ゆえに、嘆き悲しみ続けます。
そして、自分自身を知る為の道具が見つからず、この無知は残ります。
「私はちっぽけで、は取るに足りない」
個人の私は、特定の大きさで、限られた力を持つ人で、微生物や、その他の圧倒的に力強いものに対し、私は無力であるという事を知り、これらの力に従わなければならないという事。
全ての事が「私は取るに足りない」という観念を確かにし、そして「私」についての、この結論が問題なのです。
嘆き悲しんでいるのは、アルジュナだけではなく万人共通です。
ギーターは、ウパニシャド聖典[シュルティ]の地位を持ちます。
あらゆる解説は、ヴァーキャーナと呼ばれますが、シャンカラの解説は、ヴァーキャーナではなくバーシャです。
バーシャを書いた人は、バーシャカーラと呼ばれ、バーシャを解説した注釈人は、ティーカカーラと言います。
原典にでなく、バーシャ自体に対して、詩の形をした独立した解説は、ヴァールティカと呼ばれます。
そして、ヴァールティカを書く人は、ヴァールティカ・カーラです。
これらのカテゴリー分けに従い伝統[サンプラダーヤ]があり、その中で認められている人達がいます。
例えばヴェーダーンタにおいて、ヴァールティカーラは、バーシャカーラの4人の弟子の最年長者であるスレーシュヴァラを意味します。
更にバーシャカーラと言う時、それはシャンカラを意味しています。
パタンジャリはマハーバーシャカーラとして知られています。
マハーバーシャとは文法に対するパーニニのスートラ、つまりヴャーカラナ・スートラについての解説です。
ティーカカーラは、この伝統の中では大抵、全てのシャンカラの解説に対するティーカーを書いたアーナンダギリを指しています。
バーシャカーラがシャンカラで、とバーシャはシャンカラの解説という事を知った上で先に進みます。