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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章30番目の詩

देही नित्यमवध्योऽयं देहे सर्वस्य भारत ।

dehī nityamavadhyo'yaṃ dehe sarvasya bhārata |

तस्मात्सर्वाणि भूतानि न त्वं शोचितुमर्हसि ॥२.३०॥

tasmātsarvāṇi bhūtāni na tvaṃ śocitumarhasi ||2.30||

全ての生き物の体に宿るこのアートマーは、永久に破壊出来ません

バーラタの子孫よ!ですからあなたは、これらに悲しむべきではありません[30]

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第2章11節の「悲しみの理由はない」というクリシュナの発言がここで要約されます。

アートマーはサットですから、誕生、死、変化などの対象ではないニッテャです。

体[デーハ]の中に宿る人[デーヒー]がいて、ジーヴァ・アートマーと呼ばれるこのデーヒーは、破壊の対象ではないもの[ア・ヴァッデャ]です。

それは決して破壊されず、肉体が滅ぼされる時でさえ、アートマーは滅ぼされません。

「全ての生き物に関して、あなたは悲しむに値しない」と、クリシュナは言いました。

アニッテャである肉体が、滅ぼされないことなどなく、ニッテャ・アートマーを滅ぼすことも出来ません。

あなたに悲しみを引き起こすどんな状況も、永遠ではないので、死に対して悲しみの余地などありません。

スカ・ドゥッカは来ては去るもの。

ドゥッカに中身などなく、すなわち本当にあるものではなく、その中身とは「I am」。

実際、それを引き起こすのは、それに反応する人の考えです。

ここでは、肉体的な痛みではなく、悲しみを扱っています。

様々な状況にも、考えにも、そしてもちろん私にも問題はなく、問題は「知らない」。

しかし、「知らない」すなわち無知にも問題などありません。

なぜなら、無知などどこにもなく、あるのは知識だけ。

ちょうど、光があるなら、暗闇などどこにも存在できないように。

◎悲しみの本質

悲しみとは、独特な考え方です。

悲しみとは自分を中心としたもの、「私が私をどの様に見ているか」で 、このトピックがギーターの主題です。

「あなたは悲しむべきではない[na tvaṃ śocitum arhasi]」が繰り返されます。

クリシュナは、悲しむ理由がないと言った後、同じトピックを他の観点からとりあげます。

実際、全ての可能な観点を余す所なく述べました。

シャンカラは、次の詩を紹介して、絶対的なリアリティの観点から[パラマールタ・タットヴァ・アペークシャーヤーム]悲しみや破壊は不可能[ショーカハ モーハハ ヴァー ナ サムバヴァティ]と言いました。

そして、比較的なリアリティの観点からも不可能です。

アルジュナは、こんな風に言ったかもしれません。

「私は、ビーシュマ達のことを心配しているのに、あなたは、アートマーは死なないと言います。ビーシュマは私が尊敬する祖父ですから、私は殺すことなど、考えるだけで悲しいです。誰かが死ぬから悲しんでいるのに。細菌がアートマーを殺すことなど出来ないなどと言わないで下さい。実際、その細菌がその人を殺したのに。あんまりです。」

自己の知識を求めたので、アルジュナはこの様には言いませんでしたが。

アルジュナがクリシュナに教えを乞うまで、クリシュナは教えませんでした。

アルジュナに、ただ戦う様励ましました。

アルジュナが頼んだので、クリシュナは教えはじめました。

アルジュナがシュレーヤスを求め、私はクリシュナのシッシャだと言うので、クリシュナは教えました。

これは、ここでのアルジュナの考えではなかったにも関わらず、クリシュナはそのトピックを余す所なく述べました。

クリシュナは、相対的な観点からですら、扱わないまま進めようとはしませんでした。

「悲しみの理由はない」というクリシュナの発言は、絶対的観点と相対的な観点の両方から理解する事が出来ます。