2019/01/05
एषा तेऽभिहिता साङ्ख्ये बुद्धिर्योगे त्विमां शृणु ।
eṣā te'bhihitā sāṅ-khye buddhiryoge tvimāṃ śṛṇu |
बुद्ध्या युक्तो यया पार्थ कर्मबन्धं प्रहास्यसि ॥२.३९॥
buddhyā yukto yayā pārtha karmabandhaṃ prahāsyasi ||2.39||
自分とは何かの知識が話されてきました
プルターの息子よ!今ヨーガの知識も聞きなさい
あなたがそれを授かるなら
行いの束縛を取り除くでしょう[2-39]
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この第2章で、これまでサーンキャが教えられました。
ギーターシャーストラは、2つのシャーストラがあります。
カルマ・シャーストラとモークシャ・シャーストラです。
モークシャ・シャーストラとはヴェーダーンタで
ギーターはモークシャ・シャーストラです。
カルマ・シャーストラは、様々なゴール[サーデャ]を得る為
様々な儀式、カルマ、又は手段[サーダナ]を
議論するカルマ・カーンダです。
カルマ・カーンダもヴェーダですが、カルマが主題です。
モークシャ・シャーストラの主題は、知識[ニャーナ]です。
モークシャ・シャーストラは、カルマヨーガと
サーンキャ(サンニャーサ)、2つのライフスタイルで
2つの観点から見られる事が出来ます。
両方がモークシャの為だけにあります。
カルマと、カルマヨーガの違いを
はっきりと理解されるべきです。
自分自身を清らかにする為に
カルマを行う事が、カルマヨーガです。
見極める力[ヴィヴェーカ]を持ち、モークシャを求めます。
モークシャを得る為に、人はある種の考えが必要です。
その考えを得る為に、人はある心構えでカルマを果たします。
その心構えが、行いをヨーガに変えます。
単にカルマを果たすことはヨーガではありません。
毎日行われるべき一連の祈り[ニッテャ・カルマ]があり
それらの祈りの1つはサンデャー・ヴァンダナと呼ばれます。
ヴァンダナとは、敬意or祈り
サンデャーとは、日の出、正午、日没の3回を示します。
サンデャーの文字通りの意味は「2つの時間が合う時」です。
夜は既に終わっているが、日は昇っていない時
日は既に沈み、夜はまだ始まっていない時
午前でも午後でもない、まさに正午です。
こういったニッテャ・カルマは、何かの結果を得る為か
考えを清める為[アンタッカラナ・シュッディ]に行う事が出来ます。
人が、アンタッカナ・シュッディを求めるのは
考え[アンタッカラナ]は、自己の知識を得る為に必要だからです。
カルマは、知識を得る為の考えを準備で
モークシャの為の間接的な手段です。
アンタッカラナ・シュッディの為の祈りは
イーシュワラが、そのカルマを喜び
考えを清める事で、祝福する事だけを願います。
祈りの行為は、喜びや、義務から為されるかもしれません。
アンタッカラナ・シュッディの為に祈るなら
それはヨーガとなります。
祈り、帰依(拠り所とする)、サマーディ
サマーディの為のアシュターンガヨーガを含む
様々なトピックが、カルマヨーガの中に含まれると
この詩のシャンカラのバーシャの中述べられています。
サーンキャとカルマヨーガという2つの主題は、違いがある
それを、この詩が明らかにしています。
この違いを理解しないなら
ギーター全体が矛盾していると、聞き手は混乱します。
この違いが明らかであれば、理解は可能です。
クリシュナは言いました。
「今まで私があなたに教えて来た事はサーンキャです」
[サーンキェー エーシャー ブッティヒ マヤー アビヒター トゥッビャム]
知識が、無知を取り除きます。
無知自体が問題です。
「天国が私の全ての問題の解決する」と考える事は、妄想[モーハ]です。
悲しみは、何処かに辿り着くこと
あれやこれやを得ることで取り除かれる、という考えがモーハです。
真実の知識は、この無知を取り除きます。
知識がモークシャの直接的な手段です。