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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章41番目の詩

व्यवसायात्मिका बुद्धिरेकेह कुरुनन्दन ।

vyavasāyātmikā buddhirekeha kurunandana |

बहुशाखा ह्यनन्ताश्च बुद्धयोऽव्यवसायिनाम् ॥२.४१॥

bahuśākhā hyanantāśca buddhayo'vyavasāyinām ||2.41||

クル一族の子孫よ!これ(モークシャ)に関してひとつの明確な理解がある

見極める努力が不足している者の観念は、多くに枝分かれし、全く数えきれない

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私は既に自由ですから、より良くすることなど出来ません。

私は既にparam-brahman、この知識のみが、私を自由にします。

知識は考えに起こるので、その考えの準備が整っていないなら、師から知識を求めても、知識を得るという保障は全くありません。

成人だから、教えを受け取る為の考え[antaḥkaraṇa]の準備が整っているわけではなく、定まった成熟[viveka]が必要です。

単なる好奇心ではなく、ある種の見極め[viveka]があり、この知識を求めるなら受け取ることができます。

その知識を受けとる為に必要な考えが、祈り深く、思慮深い態度で行いを練習するkarmayogaのライフスタイルで完成されます。

あるいは知識[sāṅkhya]だけを求めた、引退の人生を選ぶことも出来ます。

知識を探求する為に、あらゆる活動を排除しsannyāsaを得るので、sāṅkhyaとsannyāsaは共にあります。

sannyāsīになることで悟るわけではなく、sannyāsīも知識を得なければなりません。

同様に、karmayogaだけでは悟れませんから、知識を得なければなりません。

知識が、人を自由にしますから、karmayogaとsannyāsaの人生、どちらも知識が必要です。

その為、yogaで準備された考えを必要とします。

sannyāsīは、サマーディの最終的な段階までアシュターンガ・ヨーガに従うかもしれませんが、アシュタンガヨーガも知識のための行い、antaḥkaraṇa-śuddhiですから、karmayogaに含まれます。

sannyāsīも、考えのむらの無さを得る為のテクニックを使うかも知れません。

◎手段とゴールはひとつ

yavasāyaという言葉は、自分が何を求め、何をすべきか、はっきりとした考え[niścaya]を意味します。

唯一のゴール、mokṣaは知識[jñāna]です。

そのゴールが明確なら、ほぼ達成したようなものです。

求めているものは、限られているというセンスからの自由[mokṣa]で、それはただ自分自身の本当の姿、自分の外側にあるものではないことを見極めています。

私は、既に自由であることを知らなければなりません。

もし、私が束縛されている人なら、決して自由になる事は出来ません。

私が求めているものは、既に私は自由であるということ、それが「在る」で、それはjñānaの形をしています。

100人の探求者全員が、ゴールが明らかで、知識の追求に専念するのなら、śraddhāは皆に共通です。

考えの準備に関してだけ、違いがあり得ます。

一旦、考えの準備が出来るなら、あてもなく彷徨ったりしませんが、ゴールが定かでなければ、曲がりくねった川の様に、考えは彷徨います。

vyavasāyātmikā buddhiがないと、何が為されるべきかの優先順位に混乱するのです。

1+1=2という現れた知識でさえ、知識へと導く道具が、算盤、計算機、暗算であろうと、有効な道具を使うなら答えは同じです。

同様に、カルマヨーガであろうと、ニャーナヨーガであろうと焦点は同じ知識[mokṣa]です。

カルマヨーギーは、カルマパラやカルマのために行いはしません。

結果を求めず、行いをする人などいませんが、カルマヨーギーのBaseは知識(神)ですから、子育てや仕事、どんな行いをしていても、それは祈りなのです。

カルマヨーギーは、サンニャーシー同様mokṣaのみを求める人[mumukṣu]です。

◎知識のない追求には、終わりがない

皆が、様々なゴールを目指しカルマを行い、多くの枝[bahuśākhāḥ]があります。

お金や権力、様々な喜びの追及には終わりがありません[ananta]。

何を求めているか明らかでない人は、とりとめのない考え[bahuśākhāḥ buddhayaḥ]があります。

ゴールが、様々な手段で成し遂げられるので、手段とゴール、どちらも数に限りがありません。

明確な考えがない時、優先順位が定かではありませんから、何もかもが同じように大切に見えます。

一方、知られるべき事が明らかな人は、ekā buddhiがあります。

ヨーガに関してもekā buddhiです。

永遠とそうでないものの識別[nitya-anitya-vastu-viveka]から、カルマヨーガは生まれますから、選択の優先順位が、自分の好き嫌い[rāga-dveṣa]ではなく、何がdharmaで、何がadharmaかという態度です。

カルマヨーガなく、サンニャーシーになり、知識を追求してもrāga-dveṣaは中和されなければなりません。

知識の探求そのものが、rāga-dveṣaを上手く中和するかもしれません。

全てのrāga-dveṣaを処理してから、知識を探求するのはなく、知識を探求しながらrāga-dveṣaを取り扱います。

これが、アルジュナのした事でした。

◎カルマ・ヨーガは、倫理的な人生以上の何かである

戦場でアルジュナはムムクシュになりました。

アルジュナはダルマの人生を生きてましたが、完全なカルマヨーガではありません。

武器を手に入れるために、シヴァ神と戦い、ミサイルという祝福欲しさにシヴァ神を崇拝しました。

アルジュナは倫理的な人生、ダルマを生きながら、個人的な栄光を求めました。

人は、道理にかなった方法で、お金、権力、天国などを熱望出来ます。

しかし、単に道徳的な人生を生きる事がカルマヨーガではありません。

道徳的に生計を立て、健全な仕事をし、個人の倫理に従う事も、適切な生き方ではありますが、その様な人が、必ずしもムムクシュとは限りません。

真実と真実でないものを既に見極めた[nitya-anitya-vastu-viveka]で人であるとは限りません。

永遠[nitya]は、いつもあるもの、束の間や、永遠でないものはanityaです。

「私は永遠に求めている」というのは知識で、悟る為に十分な経験をしてきた後、やがて得るものです。

一方、体験は来ては去るもの、体験を漁り続けるなら、永久に探し求める人になるだけ、と言う事が分かります。

ある体験を卒業し、新しい体験を求める、あるいは体験を繰り返す事を望むかのどちらかです。

体験はanityaで、あらゆるカルマの結果はいつもanityaです。

人生の体験に対する冷静さを発見した人[mumukṣu]は、サンニャーサの人生、あるいはカルマヨーガの人生を始めます。

疑いない[niścaya]本質[svabhāva]の為に、唯一[ekā]の考えを持つ人[mumukṣu]は、ヨーガの人生をはじめます。

niścayaとは、決定というセンスの決心のことではなく、疑いがないこと、知るべきことへの明晰さがあるのです。

花が本物か、造花なのかを知りたい時、明晰さ[niścaya-ātmikā-buddhi]がありますが、「それは生花ではなく造花ですよ」と誰かが言うなら疑いが起こります。

手や鼻[pramāna]で触れたり、嗅いだりしして本物かどうか確かめ、それが、本物と分かったら明晰さ[niścaya-ātmikā-buddhi]があります。

この例え話から、niścayaとは、決心ではなく、明晰さであると理解できます。

何かを成し遂げる為に決断や決心をしますから、その花が造花であるかどうかを知る事に、決断や決心はありません。

ここでは、人生において成し遂げられるべきこと、それに関する明晰な知識が、niścaya-ātmikā-buddhiです。

どんなターゲットも、ほのめかされた意味もlakṣaと言われます。

ここで示される様々な手段(知識の道具とカルマヨーガ)は、明らかにlakṣaです。

ゴールをもたらすのは、知識[jñāna]である事を熟知し、カルマヨーガを選びます。

カルマヨーギーは、ゴールについての明晰さ[niścaya]があります。

アーサナ、プラーナヤーマ、他の様々な鍛錬、多くの儀式も為されるかもしれませんが、たった1つの目的の為だけにそれらをします。

カルマヨーギーにとって、この統合、様々な修業や鍛錬の目的も明らかです。

あらゆるカルマも、低い価値であると見たり、無視されませんし、ゴールの為の手段として間違えられたりもしません。

あらゆる事を試してみたけれども、何も全く役に立たなかったと、カルマヨーギーは後に不満を言ったりはしません。

例えモークシャが叶わなくとも、ヨーガの人生こそが喜びです。

◎何であれ助けになることは役に立つ

正しく為されることは、何かしら役に立ちますし、誰かの助けとなることが、別の人の助けにならない事も事実です。

知識[jñāna]の為に探求[vicāra]し、すべき事をするなら知識を作り出しますが、行いがゴールになるなら、そこには限界があるということです。

ですから、知識の為に、すべきことをします。

nitya-anitya-vastu-vivekaがあるので、唯一の考えがある[ekā buddhiḥ bhavati]と、シャンカラは言います。

しかし、求めるゴール[lakṣa]が明確でないなら、確かな方向性のない、多くの追求に分散した考え[vyavasāyātmikā buddhi]があるでしょう。

vyavasāyaがない人は、見極める力[viveka-buddhi]がありませんから、シャーストラの学びを通して、pramānaから生まれる知識を持ちません。

その人は、明晰さが無いので、多くの枝葉[bahuśākhā]、つまり、数え切れない手段とゴールが、buddhiの中にあるのです。

マルチタクスを好み、どれも中途半端で「時間が足りない」と言います。

◎優先順位が明確でないことは問題である

体は1つしかありませんから「今はこの仕事をして、これは後にしよう。」と言えるのは、唯一のbuddhiを持っている事を意味します。

色んな事をしたくて、優先順位が明らかでないなら、始める事すら出来ません。

人生で探求すべきことは、この知識、自由であることが明らかなら、結婚も子育ても仕事も全てがカルマヨーガになります。

実際、結婚はヨーガです。

この知識の準備の為、2人はカルマヨーガの人生を共に生きるのです。