2019-04-14

【ギーター】第2章44番目の詩

2019/04/06

भोगैश्वर्यप्रसक्तानां तयापहृतचेतसाम् ।
व्यवसायात्मिका बुद्धिः समाधौ न विधीयते ॥२.४४॥

bhogaiśvaryaprasaktānāṃ tayāpahṛtacetasām |
vyavasāyātmikā buddhiḥ samādhau na vidhīyate ||2.44||

それらの華やかな言葉によって考えが奪われ

喜びや権力のみを追求する人々の考えには

しっかりと確かめ尽くされた理解は起こりません[2-44]

クリシュナは既にサーンキャの知識を明らかにしていました。そしてカルマヨーガを解き明かした知識に耳を傾けるようにアルジュナに言いました。この様にクリシュナがここでした様にカルマヨーガと言う意味でヨーガを賞賛した時、サーンキャは全く論じられていませんでした。

何かを褒める時、他の何かと比べる事で褒める事があります。クリシュナがカルマヨーガを賞賛する時、単なるカルマとの比較がありました。つまり考えに何かの結果を伴って行われるカルマ、つまり「この結果の為だけに私はこのカルマを行う」という考えで行われるカルマとの比較がありました。単純なカルマの結果、パラはいつも限られています。それはモークシャが得られる為のもの、つまり考えをきれいにする為、アンタッカラナ・シュッディの為のカルマではありません。カルマがアンタッカラナ・シュッディの為に行われる時、コミットメントはモークシャだけであって、あなたはムムクシュになります。これが私たちがヨーガと呼ぶものです。

世俗的なラウキカカルマであろうと、聖典に基づいたヴァイディカカルマであろうと、カルマは一般的に限られた結果の為になされます。何であれ限られた結果を得る為になされるカルマは、カーミャカルマと呼ばれます。シャーストラはカーミャカルマの結果として天国も含んでいます。

この詩で議論されている人々はヴェーダを知っていて、それを引用しますが、カルマとその結果の素晴らしさを証明する為だけにそうするのです。(プッシュピターム ヴァーチャム プラヴァダンティ)とても華やかで聞き心地の良い言葉が、これらの人によって使われ、そして彼らは楽しみ・ボーガや、権力の行使を意味する統括力・アイシュヴァルヤを得る為になされる様々なカルマについて話します。楽しみと権力がたった2つの目的で、その為にこの様な人々は人生の全てを捧げます。そして彼らは、彼らの願望に専念しているので、それについて沢山話します。

アイシュヴァルヤと言う言葉は、様々なレベルの権力を含む統括力を意味します。例えば警察官は、人々の運転の癖を取り締まります。これはある種のアイシュヴァルヤです。そして、警察署では、全ての警察官を取り締まる警部補がいて、警部補を取り締まる局長がいます。局長の上にも他の誰かがいます。これらの全ての人々に行使される権力は、異なったレベルで、異なった種類のアイシュヴァルヤを表しています。

ヴィヴェーカなくして、混乱に終わりはない
ボーガとアイシュヴァルヤに完全に専念している人々、喜びと権力の追求だけに従事している人々は様々なゴールを達成する為の手段である、様々なタイプのカルマを明らかにする華やかな言葉に影響されます。これらの言葉は、何もヴェーダの言葉だけではなく、何であれその時代に、その言語で為される「誇大宣伝」から引用された日常の言葉もそうです。それらのとても魅力的で、華やかな言葉を聞いて、彼らの考えは奪われます。彼らはアパフルタ・チェータサハになります。この様な人々において見極める知識は完全に覆われているので、何も明らかではありません。

当然のことながら、その様な人々は、そういった言葉を見通しません。彼らの見極める能力、ヴィヴェーカは覆われているので、彼らはそれらの言葉の限界を見ません。彼らには人生に何を求めているかについての明晰さ、ヴャヴァサーヤートミカー・ブッディがありません。いつも同じであるそのブッディ、エーカーブッディが彼らにはありません。ですから混乱という結果に終わる、達成されるべき何百ものゴールと、様々な手段があります。同時に全てものを手に入れることは出来ない事が分かるので、混乱がある所にはいつも優先順位の問題があります。その様な状況において、考えは決して落ち着く事が出来ません。

ボーガとアイシュヴァルヤに専心している人々、手段と結果を賞賛する魅力的な言葉に考えを奪われている人々は、人生で何を成し遂げるべきかに関して明らかな考えを持たないとクリシュナはこの詩で言います。どこに、その種の明晰さが起こらないのでしょうか?考えに起こらないのです。サマーダウ ナ ヴィディーヤテー。考えがとりとめもなく彷徨い、何を求めているのかについての明晰さ、ニシュチャヤを持たない人々に関するサマーディの他の意味はありません。ですからエーカーブッディである、このヴャヴァサーヤートミカー・ブッディは、これらの人々の考えには起こりません。明晰さを確かに持っている人は、エーカーブッディを持っています。つまり彼らにとってはたった1つのラクシャ、1つのゴールしかありません。モークシャが成し遂げられるべき唯一のゴールなのです。

シャンカラ先生は、この詩の解説の中で「世界の全てのものは、あなたの考えだけに及びます(サマーディヤテー アスミン)」と言い、サマーディの言葉の使い方を説明します。考えにおいてのみ全ての感覚器官の対象物や、全ての経験など、あなたの目の前にある全世界が、あなたによってのみ体験されます。目は開いていて、見ているかもしれませんが、何であれ、見るという事が実際に起こる前に、目が見ているものが、考えに届かなければなりません。ですからここで、サマーダウとは「考えの中に」つまり、アンタッカラネー ブッダウを意味しています。そしてこれらの人々の考えに起こらないものは何でしょうか?エーカーブッディヒ、ヴャヴァサーヤートミカーブッディヒ アスミン サマーダウ ナ ヴィディーヤテー。その代わりそのブッディはとりとめもなく彷徨うブッディです。ちょうどおもちゃ屋さんに連れて行かれて、たった1つの玩具を選ぶように言われた、活発で快活な子供の考えの様に、あれやこれやと欲しがるブッディです。完全な混乱がその結果です。

既に混乱している人が、ヴェーダを学び、様々な行いが様々な結果をもたらすことを知ると、その人の混乱には終わりがなくなってしまいます。ちょうど、あなたは何か贈りものを買いたいのでカタログを見ている人の様なものです。間もなく、あなた自身が全てのページに何かを求めている事だけが分かります。あなたは全世界が、もっと魅力的で心をそそるものを持っている事を、シャーストラを通して発見します。それによってボーガとアイシュヴァルヤに専念している人々の考えは奪われ、ものを見極める注意深さは混乱しています。ですからヴャヴァサーヤートミカーブッディを持つ事の重要性をクリシュナは強調しました。

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