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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章44番目の詩

भोगैश्वर्यप्रसक्तानां तयापहृतचेतसाम् ।

bhogaiśvaryaprasaktānāṃ tayāpahṛtacetasām |

व्यवसायात्मिका बुद्धिः समाधौ न विधीयते ॥२.४४॥

vyavasāyātmikā buddhiḥ samādhau na vidhīyate ||2.44||

喜びや権力だけを追い求め、それらの華やかな言葉に心を奪われた人には
しっかりと確かめ尽くされた理解は起こりません[2-44]

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何かを褒める時、他の何かと比べて褒めることがあります。

クリシュナがkarmayogaを賞賛する時、単なるkarma、すなわち行いの結果の為だけにするkarmaとの比較があります。

karmaの結果[phala]はいつも限られていて、それはmokṣaの為の、考えをきれいにする[antaḥkaraṇa-śuddhi]の為の行いではありません。

karmaがantaḥkaraṇa-śuddhiの為に行われる時、コミットメントはmokṣaだけで、その人はmumukṣuです。

これがヨーガと呼ばれるものです。

世俗的な行い[laukika-karma]も、聖典に基づいた儀式も[vaidika-karma]も、karmaは一般的に限られた結果の為になされます。

限られた結果を得る為になされる行い[kāmya-karma]は、天国も含みます。

この詩で議論されている人は、karmaとその結果の素晴らしさを証明する為だけにvedaを引用します[puṣpitāṃ vācaṃd pravadanti]。

とても華やかで聞き心地の良い言葉が使われ、喜び[bhoga]や、統括力[aiśvarya]という願望に専念し、様々なkarmaについて話します。

喜びと権力という2つの目的の為に人生の全てを捧げるのです。

様々なレベルの権力を含む統括力がaiśvaryaです。

例えば、警察官は、人の運転の癖を取り締まりますが、これはある種のaiśvaryaです。

そして、警察署では、全ての警察官を取り締まる警部補がいて、警部補を取り締まる局長がいて、局長の上にも他の誰かがいます。

行使される権力は、違うレベルで、違う種類のaiśvaryaを表しています。

◎ヴィヴェーカなくして、混乱に終わりはない

bhogaとaiśvaryaの追求だけに従事している人は、様々なゴール達成の為の手段である華やかな言葉に影響されます。

これらの言葉は、ヴェーダの言葉だけではなく「大袈裟な宣伝」から引用される日常の言葉も同様です。

魅力的で、華やかな言葉を聞き考えが奪われます[pahṛta cetasaḥ]。

見極める能力[viveka]が覆われている為、それらの言葉の限界を見ません。

人生に何を求めているかについての明晰さ[vyavasāyātmikā buddhiḥ]がないので、混乱しています。

人生における優先順位の問題があるので混乱し、考えは決して落ち着く事が出来ません。

明晰さが、考えに起こらないのです[samādhau na vidhīyate]。

何を求めているのかについての明晰さ[ニシュチャヤ]を持たない人々のサマーディの他の意味はありません。

唯一の考え[ekābuddhiḥ]である、はっきり識別された考え[vyavasāyātmikā buddhiḥ]が、その人の考えには起こらないのです。

明晰さを確かに持つ人の唯一のゴール[lakṣa]はmokṣaです。

シャンカラは解説で「世界の全てのものは、あなたの考えだけに及びます[samādhīyate asmin]」と言い、samādhiという言葉の使い方を説明します。

目で見ているとしても、見るという事が起こる前に、目で見ているものは、考えに届かなければなりませんから、samādhauとは「考えの中に[antaḥkaraṇe buddhau]」を意味しています。

それは、とりとめもなく彷徨うbuddhiです。

おもちゃ屋さんで1つだけ玩具を選びなさいと言われた快活な子供の考えの様に、あれやこれやと欲しがるbuddhiです。

既に混乱している人が、vedaを学び、様々な行いが結果をもたらすと知るなら、その人の混乱には終わりがありません。

カタログギフトを見ている人の様なもので、全てのページに何かを求めています。

全世界は、魅力的で心惹かれることがあることをśāstraを通して発見します。

喜び[bhoga]と権力[aiśvarya]に専念する人の考えは、見極める注意深さは混乱していますから、はっきり識別された考え[vyavasāyātmikā buddhiḥ]であることの重要性をクリシュナは強調しました。