2019-04-21

【ギーター】第2章45番目の詩

2019/04/20

त्रैगुण्यविषया वेदा निस्त्रैगुण्यो भवार्जुन ।
निर्द्वन्द्वो नित्यसत्त्वस्थो निर्योगक्षेम आत्मवान् ॥२.४५॥

traiguṇyaviṣayā vedā nistraiguṇyo bhavārjuna |
nirdvandvo nityasattvastho niryogakṣema ātmavān ||2.45||

ヴェーダの3つの主題は3つの質に関連するものです

アルジュナよ、この3つの側面を持つ質から自由な人

対極の組み合わせからなる世界から自由な人

サットヴァのグナに変わる事無く留まる人

得る事や失う事の心配から自由な人

自分自身を自由にすることが出来る人

そういった人でありなさい[2-45]

体験の喜びや権力に明け暮れる、つまりヴィヴェーカ・ブッディを持たない人々にとっては、ヴェーダの扱う主題は、トライグンニャ・ヴィシャヤになりますと、シャンカラはこの様に言う事で、この詩に対する彼の解説に前書きをします。これはヴェーダーンタを含め、もっと沢山の内容を持つヴェーダ全てを定義するものではありません。ここで意味していることは、体験の喜びや権力に明け暮れる人々にとっては、どんな聖典もただトライグンニャ・ヴィシャヤであるだけということです。たいてい人は、その人が見たいものの為だけに、聖典を調べます。それはちょうど沢山ものが並んでいる金物屋さんに行って、あなたが欲しい物だけを調べる様なものです。同じように聖典は多くのトピックを持ち、あなたは欲しい物だけを探求します。

ヴェーダは様々な結果を成し遂げる為に、道理にかなった方法を提供します。知られている結果の為の、知られてはいない手段があります。知られてはいない結果の為の知られている(五感で捉えられる)手段があります。知られていない結果の為の、知られてはいない手段があります。例えば、天国は知られてはいない結果です。なぜならそれは、私達には直接知られていないですから。シャーストラもまた、知られてはいない結果です。ダルマは知られている手段です。なぜなら何が正しくて、何が正しくないかは、私たちに全く知られていないというものではないですから。天国や、次の生まれという、この好ましいが、知られていないゴールをこれから成し遂げる為に、どの方法が正しくて、どの方法が間違っているかをヴェーダは確証するのです。

以前は、正しい行いをすればプンニャを得るかどうかを知りませんでした。そして正しい行いをする事で、ドリシュタ・パラ、今ここで得られる結果だけではなく、アドリシュタ・パラ、後程得る結果も得ます。この様にヴェーダは、知られてはいない、未知のゴールを得る為の、知られている手段について語ります。また知られているゴールの為の、知られてはいない手段を語ります。例えば子供を得る方法の様に。提供される儀式というのは、子供を得る事とは何も関係がない様なのですが、他の全ての知られている方法が、確かめつくされた時に限り、その儀式が執り行われます。医者と相談して、彼らのアドバイスに従って、それでもまだ、子供がいないとすれば、明らかに何かの妨げ、プラティバンダカがあります。この妨げを取り除く唯一の方法は祈りを通してあります。ですからヴェーダは祈りの為の儀式を提供します。広い範囲の結果を出す為の儀式ではなく、ただ子供を得るという特別な儀式です。

この様にヴェーダは、私たちに知られている、または知られてはいない様々な方法と結果を明らかにしていることを私たちは知ります。しかしこれらの全てが、限られた結果の為の方法ばかりなのです。こういったものがボーガや、アイシュヴァルヤに専心している人々が探しているものなのです。彼らにとってヴェーダは、サットヴァ、ラジャス、タマスの3つのグナにまつわるもの、サムサーラを意味する、トライグンニャ・ヴィシャヤに関連している部分だけを意味します。サットヴァはあなたに何らかの幸せを与えます。ラジャスは、興奮や動揺を与え、そしてタマスは鈍さや悲しみを与えます。こうしてこれら3つの質は、あなたに喜びや悲しみ、つまりスカとドゥッカを与えるものです。サムサーラとは、この3つのグナの囲いにあるものを意味します。

結果とその手段だけがヴェーダの主題ではない
この詩の中でクリシュナは間髪入れずにアルジュナにアドバイスしました。サムサーラが成し遂げるゴールである人にはならないように、「ニストライグンニョー バヴァ」と彼が言ったのです。実際サムサーラは、成し遂げる為の目的になったりしません。私達は既にそれを得ています。私達は既に3つの囲いの中に居て、そこから自由を探しています。

溺れている人は水をもっと必要とはしません。彼は既に溺れていて、海の中に入って行きたくはないでしょう。同じように私達は既に首までサムサーラの海の中にいます。この様にいかなる時も、サムサーラが成し遂げるべきゴールになったりしません。それは、そこから脱出する為の状況にこそなり得ます。クリシュナはまるでアルジュナにこの様にいっているかのようです。「サムサーラの中で、もっと良い場所を見つける為に、ヴェーダを探求したりしない様に。少しは見極めなさい。あなたはヴェーダから成長しなければなりません。あなたは未だにどうにかしてサムサーラを続けようとしています。それは無意味です。ですから、サムサーラのない人になりますように。ニストライグンニョー バヴァ。」

シャンカラは要約した意味を与えます。「ニシュカーマハ バヴァ。あなたが欲望から自由でありますように。彼はこう言うのです。「体験の喜びと、権力への欲望からあなたが自由でありますように。」これらを目的としませんように。更には、スカやドゥッカの原因となる対極の出来事から自由でありなさい。ニルドヴァンドヴァハ バヴァ。」シャンカラはまたドヴァンドヴァとニルドヴァンドヴァの言葉について解説します。スカドゥッカのヘートゥ、喜びと痛みの原因は、トヴァンドヴァ、対極のもの達であると言われています。対極のもの達から自由な人がニルドヴァンドヴァ、つまりスカやドゥッカの原因から自由な人だと言われています。あなたはどの様にスカとドゥッカの原因から自由であり得ますか?何かがある事や無い事に、あなたが依存してはいない事です。例えば暑いや寒いは、あなたを不幸せにする事が出来ます。もしそうなら、あなたの幸せは、それがないか、あるいは在る事に頼っています。つまりあなたはニルドヴァンドヴァでないことになります。

他の対極の組み合わせは、ジャヤとアパジャヤ、勝利と敗北です。これらもまた、あなたのスカやドゥッカの原因、ヘートゥになります。敗北にドゥッカ、痛みがあります。勝利にスカ、意気揚々があります。これに対しあなたはこの様に言うかもしれません。「仮に私が痛い思いをしたくないにしても、なぜ意気揚々であってはいけないのでしょう?」その理由と言うのは、もしあなたが意気揚々であるなら、明らかに痛みもまた持つでしょう。ですからニルドヴァンドヴァ バヴァ。どうかあなたが、対極のものに影響されませんように。あなたはそれらを避ける事が出来ませんから、それらがあなたを影響しませんように。あなたは冬や夏を避ける事は出来ませんが、それらに対し、ある種の冷静さや、心構えを保ち続ける事で、それらが、あなたに影響を与えないままにさせておくことが出来ます。この様にして、あなたに都合の良い事ばかりでないかもしれない状況を変える事に夢中にさせられる必要はありません。

サットヴァグナの卓越を楽しむ人は、サットヴァスタと呼ばれます。サットヴァが優勢になった時、平静さと、見極めと、探求と、知識があります。一方でラジョーグナは興奮や、大望や、そういったものがあります。ですからいつも知識だけにあなたのコミットメントがありますように。ニッテャサットヴァスタハ バヴァ。そうしてあなた自身がニストライグンニャであることを発見しますように。

またシャンカラは彼のこの詩の解説の中で、ニルヨーガ・クシェーマが何を意味するかを解説しています。何かあなたの持っていない物、あなたと共にいないもの、何かあなたが成し遂げたいもの、何か望ましいもの、そういったものを得る事はヨーガと呼ばれます。クシェーマは、既にあなたが得ているものを守らなければならない事を意味します。言ってみれば、あなたが仕事を持っておらず、1つ申し込んで面接に行きます。これは全て仕事を得る為に為されます。ですからあなたはヨーガをしています。一旦あなたが仕事を持つなら、仕事を保つことがもう1つの仕事になります。仕事を維持するという仕事全体が、クシェーマが意味する事になります。同じようにお金を稼ぐことはヨーガです。そしてそれにしがみつく事、投資する事はクシェーマです。子供を持つ事はヨーガです。子供を育てる事、それを失わない様に維持する事はクシェーマです。結婚する事はヨーガです。それがうまく行くようにすることはクシェーマです。ですから、ヨーガ・クシェーマはあらゆる所にあります。

人の問題は、いつもヨーガかクシェーマに関係しているでしょう。あなたが欲しいものを得ないか、あるいは持っていたものを失ってしまったか、失いつつあるか。あなたの頭の髪の毛からはじまり、心配という問題を引き起こす、私達が失っている沢山のものがあり、それら全てはヨーガとクシェーマです。ですからクリシュナはアルジュナに言いました。「ニルヨーガ・クシェーマハ バヴァ。どうかヨーガとクシェーマの為に心配や悩みを持たない人でありますように。」ここで言われている事の全てというのは、欲しいものを得る事だけに、またそれにしがみつく事だけに関心を持つ人にとっては、モークシャの追求に自分自身を没頭させることはとても難しいと言う事です。あなたはヨーガやクシェーマに進むべきではないとは、クリシュナには言いませんでした。むしろ「ヨーガとクシェーマから生まれる心配がありませんように」と彼は言いました。言い換えるなら「あなたが自由でありますように。」

更にクリシュナは言いました。「あなたがアートマヴァーン、自分自身のマスターでありますように。つまり考えと感覚器官があなたと共にある人でありますように。」こういったこと全てがギーターを通して解説されます。そうでなければ、クリシュナの言葉は、単にアドバイスであって、教えではなかったでしょう。この詩はクリシュナが教えようとしていたことを、私たちに語っています。ここではアートマーは、体、考え、そして感覚器官を意味し、既にあなたであるサッチダーナンダ・アートマーを意味していません。なぜならあなたは、体、考え、感覚器官を持ちます。ここで言われている事は「あなたが、それらを持ちますように。それらがあなたを持ちませんように!あなたが気まぐれな空想の手に落ちませんように。あなたの考えがあなたと共にありますように。あなたが無関心やプラマーダ、メカニカルな考えから自由でありますように。言い換えるなら注意深くありますように。あなたがあなたとして1つでありますように。」

ボーガとアイシュヴァルヤに専念している人達は、ヴェーダがその主題として、トライグンニャ・ヴィシャヤ、3つの質だけを持っているものと見ます。ところがヴェーダはそれ以上の教えを持っています。例えばこの詩の内容はヴェーダで教えられます。ヴェーダーンタもまたヴェーダの1部です。アルジュナはヴェーダの1部としてのトライグンニャ・ヴィシャヤを十分に学びましたと、クリシュナは言っていました。彼にとっては、他の部分、つまりヴェーダーンタを学ぶ時です。この様に彼はニストライグンニャという言葉を使いました。ですから彼はこの点を強調していきました。

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