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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章45番目の詩

त्रैगुण्यविषया वेदा निस्त्रैगुण्यो भवार्जुन ।

traiguṇyaviṣayā vedā nistraiguṇyo bhavārjuna |

निर्द्वन्द्वो नित्यसत्त्वस्थो निर्योगक्षेम आत्मवान् ॥२.४५॥

nirdvandvo nityasattvastho niryogakṣema ātmavān ||2.45||

ヴェーダの主題は3つの質に関連するものです

アルジュナよ、この3つのグナから自由で、対極の組み合わせからなる世界から自由で

サットヴァのグナに変わらず留まり、得る事・失う事の心配から自由で

自分自身を自由にすることが出来る人でありなさい[2-45]

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ヴェーダーンタは、3つの質から自由である自分自身を扱いますし、前半のヴェーダも、本当は行いと結果だけを教えているわけではありません。

しかし人は、その人が見たいものの為だけに聖典を見ますから、体験[bhoga]や、権力[aiśvarya]を求める人にとって、ヴェーダの扱う主題は、3つの質に関連するもの[traiguṇyaviṣaya]、つまりサムサーラです。

ヴェーダは、あらゆる結果を成し遂げる為の、道理にかなった方法を提供します。

知られる結果[dṛṣṭa-phala]のための、知られてはいない手段(子宝に恵まれるための儀式など、マントラ、聖典を使った儀式)。

知られていない結果[adṛṣṭa-phala]のための、知られている手段(チャリティなどダルマな行い。サーマンニャダルマは、良い悪いのセンスとして現れているので、知られている手段と言える)

知られていない結果[adṛṣṭa-phala]のための、知られていない手段( 天国や次の生まれを得るためなどの儀式)

子宝に恵まれる儀式と、子供を得ることは、一見関係がないように思われます。

しかし、医学や科学などの手段で、すべきことをしてもその結果が起こらない時、明らかに妨げ[pratibandhaka]があるのです。

この妨げを取り除く、唯一の方法が、祈りや儀式です。

ですから、祈りの儀式は、求める結果を叶えるのではなく、叶わない妨げを取り除くためにあります。

これらは、体験[bhoga]や、権力[aiśvarya]を求める人が探しているものです。

その人にとってヴェーダは、サットヴァ・ラジャス・タマス、3つのグナにまつわるもの[traiguṇyaviṣaya]、サムサーラを意味します。

サットヴァは、何らかの幸せを与え、ラジャスは、興奮や動揺を与え、タマスは鈍さや悲しみを与えます。

こうしてこれら3つの質が喜びや辛さ[sukha-duḥkha]を与えます。

サムサーラとは、この3つのグナの囲いにあるものを意味します。

◎結果と手段だけがヴェーダの主題ではない

クリシュナは「サムサーラがゴールである人にはならないように[nistraiguṇyo bhava]」と、間髪入れずに言いました。

サムサーラは、成し遂げるものではなく、私達は、既にサットヴァ・ラジャス・タマスの3つの囲いの中に居て、そこからの自由を探しています。

既に首までサムサーラの海の中に浸かっている私達は、サムサーラの海から脱出したいのです。

シャンカラは解説します。

体験の喜び、権力への欲望から私が自由でありますように[niṣkāmaḥ bhava]。

更には、喜びや辛さ[sukha-duḥkha]の原因である、対極の出来事から自由でありなさい[nirdvandvaḥ bhava

暑いと寒い、勝利と敗北などの、対極の出来事[dvandva]に振り回されるなら、それらが有る・無いに、幸せは頼っています。

勝負に負ければ痛みがあり、勝てば意気揚々とします。

「痛い思いはしたくないにしても、なぜ意気揚々であってはいけないのか?」と言うかもしれませんが、意気揚々とするなら、明らかに痛みもあるのです。

それらを避ける事が出来ませんから、どうか対極のものに影響されませんように。

冬や夏を避ける事は出来ませんが、ある種の冷静さや、心構えを保つ事で影響を受けずにいられます。

サットヴァの質が高いの人[sattvasth]は、イーシュワラが見えているので、平静さ、見極め、探求、そして知識があります。

一方、ラジョーグナは興奮や、大望です。

自分勝手な大望にならない様、スヴァダルマをしっかり認識し、考えを成長させていきます。

いつも知識にあなたのコミットメントがありますように[nityasattvasthaḥ bhava]。

そして、あなた自身が3つのグナから自由[nistraiguṇya]であることを発見しますように。

niryogakṣemaのyogaは「得ること」という意味で、kṣemaは「維持すること」を意味します。

人の問題は、いつもyogaかkṣemaにまつわります。

欲しいものが得られない、持っていたものを失ってしまうなどの、心配を引き起こす全ては、yogaとkṣemaです。

ですからクリシュナは、「得る事・失う事の為に心配や悩みを持たない人でありますように[niryogakṣemaḥ bhava]」とアルジュナに言いました。

欲しいものを得る事、また、それにしがみつく事だけに関心がある人にとって、モークシャの追求に自分自身を没頭させることは難しいのです。

クリシュナは「yogaやkṣemaに進むべきではない」ではなく、「yogaとkṣemaから生まれる心配がありませんように」と言いました。

言い換えるなら「あなたが自由でありますように」

更に「自分自身のマスターでありますように[ātmavān]」と言われました。

ここで、ātmavānという言葉のātmāは、体、考え、感覚器官のことです。

考えや感覚器官という道具に扱われる人ではなく、それらのマスターでありますように。

ギーターを通して、これらが解説されますが、クリシュナの言葉は教えであって、単なるアドバイスではないことを理解します。

Fancy(考えという道具)に振り回されされず、無関心や、メカニカルな考えに浸ること[pramāda]から自由でありますように。

言い換えるなら、あなたが目覚めますように。

あなたが、分かれていないことを理解しますように。

喜びや権力を求める人は、前半のヴェーダの主題は、3つのグナにまつわるもの[traiguṇyaviṣaya]だと見ます。

しかし、クリシュナはヴェーダーンタもヴェーダであることを強調するため、nis-traiguṇyaviṣayaという言葉を使いました。