2019-05-13

【ギーター】第2章46番目の詩

2019/05/11

यावानर्थ उदपाने सर्वतः सम्प्लुतोदके ।

तावान् सर्वेषु वेदेषु ब्राह्मणस्य विजानतः ॥२.४६॥

yāvānartha udapāne sarvataḥ samplutodake |

tāvān sarveṣu vedeṣu brāhmaṇasya vijānataḥ ||2.46||

自分自身を知っているブラーンマナーにとって

全てのヴェーダは、至る場所で洪水の時に

小さな貯水池がどれほど役に立つかと同じものです[2-46]

ブラーンマナーという言葉は

サットヴァが優勢になった人を意味し

洞察力のある、識別のある人です。

ブラーンマナーを条件づけている

ヴィジャーナタハという言葉は

何が何たるかを知っている人です。

悟りを得たブラーンマナーにとって

[ヴィジャーニタハ ブラーンマナッスャ]

サムサーラに繋がるヴェーダの部分は

洪水時の、貯水池ほどの価値だと

クリシュナが言うのです。

[サルヴァタハ サンプルトーダケー]

水を求め探す必要はありません。

前半のヴェーダで語られる

様々な手段とその目的は、全て限りがあります。

行いのどんな結果も限られています。

賢い人とは、自分が限り無いこと

[パラムブランマン]であることを知っている人です。

限りないもの[アーナンダ]なのに

アーナンダを探す必要が何処にあるでしょう。

人の本質[スヴァルーパ]がアーナンダですから

それを知る人はアーナンダを探しません。

ちょうど砂糖の結晶が、甘くなる為に

他の砂糖を全く必要としないのと同じです。

どんなものも砂糖より甘くなれません。

何かが、砂糖に結晶するなら

それ以上は甘くなることが出来ません。

結晶は、甘さの飽和状態です。

同様に、あなたはアーナンダですから

アーナンダを叶えてくれるも

安全を叶えてくれるものを必要としません。

4つのヴェーダで述べらる、様々な方法とそのゴール

[ターヴァーン サルヴェーシュ ヴェーデーシュ]は

洪水時の小さなため池や、井戸の様に

役に立たちません。

ため池や井戸が既に水で溢れている時

実際、何処がため池で、井戸でしょうか?

人は、何を本当に求めているかを知らないが故に

カルマをするのだと、クリシュナは指摘します。

何を求めているかが分からないので

人は、体験の喜びと権力を追い求めます。

しかし、求めるものがハッキリするなら考えは定まります。

嵐が去り、体験にはもはや興味はありません。

求めるものがハッキリするので

全ての実験は終わりです。

そしてそれ自体が大きな祝福です。

ですからサンニャーサという生き方をしたいのか

カルマヨーガという生き方をしたいのか

2つの生き方の選択があります。

しかし実際、それは置かれている状況によるので

とても小さな選択です。

サンニャーサが、道理に適っていななら

カルマヨーガが望ましいです。

どちらもモークシャの為のものです。

サンニャーシーも、カルマヨーギーも

モークシャの為に努力します。

クリシュナはカルマヨーガについてを

次の詩から話しはじめます。

関連記事