यावानर्थ उदपाने सर्वतः सम्प्लुतोदके ।
yāvānartha udapāne sarvataḥ samplutodake |
तावान् सर्वेषु वेदेषु ब्राह्मणस्य विजानतः ॥२.४६॥
tāvān sarveṣu vedeṣu brāhmaṇasya vijānataḥ ||2.46||
自分自身を知るブラーンマナーにとって全てのヴェーダは
至る場所で洪水の時、井戸がどれほど役に立つかと同じことです[2-46]
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ブラーンマナーとは、サットヴァが優勢になった人で、 洞察力のある、識別のある人です。
すなわち何が何たるかを知っている人[vijānataḥ]です。
悟りを得たブラーンマナーにとって [vijānataḥ brāhmaṇasya] サムサーラに繋がるヴェーダの部分は、洪水時の貯水池ほどの価値だとクリシュナが言います。
至る所、水で溢れている時[sarvataḥ samplutodake] 水を求め探す必要はありません。
◎求めることの完結
前半のヴェーダで語られる様々な手段、そして結果も全て限られています。
賢い人とは、自分が限り無いこと[parambrahman]を知っている人ですから、限りないもの[ānanda]を探す必要などありません。
砂糖の結晶が、甘くなる為に 他の砂糖を全く必要としないのと同様に、人の本質[svarūpa]がアーナンダですから、それを知る人はアーナンダを探しません。
砂糖の結晶は、甘さの飽和状態ですから、同様にアーナンダであるあなたは、アーナンダを叶えてくれるも 安全を叶えてくれるものを必要としません。
4つのヴェーダで述べらる、様々な方法とそのゴール [tāvān sarveṣu vedeṣu]は 洪水時の小さなため池や、井戸の様に役に立たちません。
ため池や井戸が既に水で溢れている時、 実際、何処がため池で、井戸でしょうか?
人は、何を本当に求めているかを知らないが故にカルマをするのだとクリシュナは指摘します。
何を求めているかが分からないので 人は、体験の喜びと権力を追い求めますが、求めるものがハッキリするなら考えは定まります。
嵐が去り、体験にはもはや興味はありません。
求めるものがハッキリするので、全ての実験は終わり、そしてそれ自体が大きな祝福です。
ですからサンニャーサの生き方、カルマヨーガの生き方という2つの選択があります。
しかし、それも置かれている状況によるので、とても小さな選択です。
どちらもモークシャの為のもので、 サンニャーシーも、カルマヨーギーもモークシャの為に努力します。
サンニャーサが、道理に適っていななら カルマヨーガが望ましいのです。
クリシュナはカルマヨーガについて次の詩から話しはじめます。