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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章48番目の詩

योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।

yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |

सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥

siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||

ダナンジャヤよ、 執着を手放し、ヨーガに留まり行いをしなさい

成功も失敗も同じに留まり、考えに偏見のない事からの平静な生き方がヨーガと呼ばれます

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好ましい事[ラーガ]、好ましくない事[ドヴェーシャ]は、執着[サンガ]の原因です。

「これが、私に起こるべきだ」「これは、私に起こるべきではない」と。

しかし、もし私達が偏見なし[サマットヴァ]に物事を見る時、ラーガ・ドヴェーシャは中和されます。

ラーガ・ドヴェーシャは、どんな種類の反応をも作り出す事の出来ない様に溶かされます。

ラーガ・ドヴェーシャは、様々なカルマを通し、それ自身を現します。

そして、その人のサマットヴァの考えのあり方に合わせて中和されます。

これがカルマ・ヨーガによって意味される事です。

ヨーガに留まる[スタ]とは、このサマットヴァの考えのあり方を楽しむと言う意味です。

成功[シッディ]、失敗[アシッディ]のどちらも、偏見なく受け取れることがヨーガと呼ばれます。

これが、私達をヨーギーにするものです。

ヴェーダで申し付けられている儀式[vaidika-karma]

①誰かに望まれた何らかの結果を生み出す為の儀式[kāmya-karma]

②毎日の儀式[nitya-karma]

③特別な日時に行われる儀式[naimittika-karma]

④間違った行いを正す為の儀式[prāyaścitta-karma]

ラーマの父ダシャラタは王様として、子供を望みプットラカーメシュティという儀式で4人の子供を得ました。

この種類の儀式[カルマ]は、カーミャ・カルマの例えです。

カーミャ・カルマはヴェーダによって仕組まれて解き明かされ、何らかのカルマがある結果を生み出すと言います。

同様に「天国を得る」ヴェーダの中に述べられた多くの儀式があり、これも全てカーミャ・カルマです。

しかしそれは、カーミャ・カルマが、アンタッカラナ・シュッディの為ではありません。

特別な儀式が、特別な結果の為に述べられましたが、子供に対する望みの様に、それらは単に、望まれるもの[カーミャ]の為です。

”ニッテャ・カルマ”と、”ナイミッテャ・カルマ”これら2つは一緒に考えられます。

学生[ブランマチャーリー]は、2種類のカルマをします。

①毎日3回為されるサンデャ・ヴァンダナという祈り。

②サミッダーダーナと呼ばれる火を使う儀式。

朝に1度行われ、その中に「私が輝きであります様に。私が完全に自分自身をコントロールする人であります様に。」という祈りがあります。

家庭人[グラハスタ]もサンデャ・ヴァンダナは続きます。

ところがサミッダーダーナは、アッグニホートラに置き換えられ、アッグニホートラは朝と夜の2回行わなけます。

結婚の日に灯された火は、その人がサンニャーサの生き方を選ぶか、あるいは死ぬ時まで、火が消える事が許されません。

もし結婚した人が、サンニャーサの前に死んだら、その同じ火が、その体を火葬する為に使われます。

この様に家庭を持つ人の人生は、献身的で宗教的な人生です。

ニッテャ・カルマは、しくじることなく毎日行わなければなりません。

隠居生活の準備[ヴァーナプラスタ・アーシュラマ]では、サンデャー・ヴァンダナ、アッグニホートラとその他カルマが付け加えられます。

それは瞑想の性質を持ちます。

これらのカルマをまぬがれる方法はありません。

人生のゴールを果たす為の生き方[サンニャーサ]でこれらの儀式と誓い[ディークシャ]は手放され、それらのカルマも手放されます。

儀式で得た身の回り品も手放され、ガーヤットリーマントラも手放すものに含まれます。

オームという音[オームカーラ]と、必要最低限の物だけを持ちヴェーダの最後の部分[ヴェーダーンタ]を勉強と熟考に専念する生き方に入ります。

サンンニャーサーまでは、ヴェーダによって申し付けられた様々な儀式をしなければなりません。

プラーヤシュチッタ・カルマは、間違った行いの結果を、中和する事が出来ます。

その例えが、チャーンドラーヤナです。

1カ月に食べる食べ物の量を調整します。

満月の日に始め、次の日食べる量を15分の1を減らし、次の日又15分の1、これを何も食べない新月の日まで続け、新月の次の日[プラタマー]に15分の1を食べ、次の日には15分の2を食べ満月の日まで、15分の1量を増やします。

この期間中が、ある種の儀式になります。

プラーヤシュチッタ・カルマは、償いのカルマです。

カルマヨーガでは、カーンミャ・カルマを手放します。

イーシュワラに捧げるものとして、同様に、考えを整理する為ニッテャ・ナイミッテャ・カルマを行います。

考えを整理する[アンタッカラナシュッディ]の目的で、ヴァイディカの儀式を行い、カルマ・ヨーギーとなります。

「そうでない場合は、カルミーです」とシャンカラは、ここで述べています。

はっきりと確かめられた理解[ヴャヴァサーヤートミカ・ブッディ]があれば、全てのカルマがモークシャに向かいます。

モークシャはカルマで得れません。

カルマは考えを準備する為です。

カルマを通し、考えを準備する事は、私達にとってヨーガとなります。

ギーターの中で「カルマ」という言葉は、ヴァイディカ・カルマとして通常は使われますが、戦う事は「成さねばならない事」で、クシャットリアの義務としてのカルマでした。

こうしてカルマ・ヨーガは全ての活動をカバーします。

私達は、好き、嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を中和するのです。

物事の捉え方の偏見の無さ[サマットヴァ]で行いをする時ラーガ・ドヴェーシャは中和されます。

この考えのあり方がカルマ・ヨーガです。

この詩の、サマットヴァの考えのあり方は、「行い」そのものではなく「結果[パラ]」に関しての受け止め方です。

この考えのあり方が、ヴェーダの文明に表れていてプラサーダブッディと呼ばれます。

ヴェーダにおいて「結果に期待することなく、行動を起こすべきだ」という伝統はありません。

これらが、カルマ・ヨーガの意味として、翻訳されているものもありますが、それらは、間違った翻訳です。

その様な解釈が、試してみたら分かりますが、更なるコンプレックスを作り出します。

カルマ・ヨーガのもう1つの定義「ヨーガハ カルマス カウシャラム」について

全ての人類において普遍的なダルマ(秩序)は、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。

サーマーンニャ・ダルマを元に、私達は世界と関わります。

この秩序はまさに基盤です。

数々の聖典もこれを確証していて、もしこの秩序に逆らうなら、パーパ(不快と苦痛を経験させられる状況)を作り出すと言います。

例えば、人の所有物を「盗む」ことは正しくないことという法は、普遍の法です。

左側通行の様な、人が作り出した協定に基づく法ではありません。

カルマヨーガの2つ目の定義「カウシャラ」は、正しく判断する為の私達の能力の事を言います。

行いの拠り所となるダルマに関する解釈、判断の能力が、思慮深さで、高度な専門知識です。

「カウシャラ」を「「行いに関しての技術」と翻訳されているもがありますが、それは間違いです。

イーシュワラを迂回する様にデザインされた非宗教的な翻訳です。

イーシュワラが理解され、受け入れられた時に限りカルマ・ヨーガがあります。

ある泥棒のお話

「あらゆる状況、結果をイーシュワラからの恩恵と見る」という講話を聴いた、ある泥棒が、他者の金庫を狙います。

金庫の中は空かもしれないし、金はあっても捕まるかもしれない、銃で撃たれるかもしれない、殴られるかもしれない、警察に突き出されて、何年も牢獄に入る羽目になるかもしれないし、あるいは大金持って逃げ去れる事が出来るかもしれません。

もちろん大金を持ち去る事が、泥棒の希望ですが、どんな状況が来ようとも、それをプラサーダとして受け取ります。

「もし私が全ての金を得たら、それはプラサーダですし、そして私が叩きのめされるなら一打、一打をプラサーダとして受け取ります。私はカルマヨーギーですよね?クリシュナ神が、ギーターの中でカルマヨーギーは、神に愛されると言っています。私は神に愛されたいのです。全てをプラサーダとして受け入れれば、私は愛されますか?」

カルマヨーガの1つ目の定義、イーシュワラ・プラサーダ・ブッディ、あらゆる状況、結果をイーシュワラからの恩恵として受け取るだけでは、こんな事を言い出す人がいるかも知れないので「ヨーガハ カルマス カウシャラム」イーシュワラ・アルパナ・ブッディというもう1つの定義があります。

カルマ・ヨーガの1つ定義は「サマットヴァム ヨーガハ ウッチャテー」です。

行いの結果に関しての反応に、サマ(偏見の無さ)があります。

サマットヴァのあり方を得るのは、全ての行いの結果を与えるカルマ・パラ・ダーターとしてのイーシュワラの認識があるからです。

カルマ・ヨーガのもう1つ定義が「ヨーガハ カルマス カウシャラム」です。

行いに関して、選択を練習する時にサーマンニャ・ダルマと、ヴィシェーシャ・ダルマがいつも決定基準となるべきです。

全ての人類において普遍的なダルマは、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。

サーマーンニャ(सामन्यः [sāmanyaḥ])とは、総体的な、一般的な、という意味です。

一方、その時代や場所で変わるダルマは、ヴィシェーシャ・ダルマと呼ばれます。

ヴィシェーシャ(विशेषः [viśeṣaḥ])とは、特異な、特別な、という意味です。

文化や習慣、宗教の違いも、このヴィシェーシャ・ダルマに反映されます。

私達はラーガ・ドヴェーシャだけに従って進むのではなく、ダルマに従って進む時、道徳的な生活を営んでいます。

しかし、その様な生活はヨーガではないかも知れません。

イーシュワラを考慮される時に限り、ヨーガの意味があります。

ギーターは、すぐにはイーシュワラを論じず第3章ではじめて論じられます。

神、イーシュワラというのは、創造主であるだけではなく、創造された世界でもあります。

ですから創造世界はイーシュワラから離れてはいません。

イーシュワラは宇宙創造の知的な源、物質的な源り、両方なのです。

知的な源と材料の源の両方であるという地位が、イーシュワラという意味です。

ですからこれが、創造世界は創造主と離れていないという理由です。

一方、例え想像された世界なしでも、創造主は残るという意味で、創造主は創造世界から自立しています。

例えば世界消滅の時に全世界がイーシュワラに戻って行き、彼だけが残ります。

創造世界は私達が作る夢のようです。

夢がなかろうとあなたは残ります。

夢の世界は、あなたから独立してはいませんが熟睡中の様に、あなたはそれなしでも存在する事が出来ます。

同じように創造宇宙は、創造主、イーシュワラから離れてはいません。

私達の自由意志が含まれる創造物は、私達が作った創造物[ジーヴァ・スルシュティ]、

そして、世界の中で自然によって創造された物は、イーシュワラの創造物[イーシュワラ・スルシュティ]と見なす事が出来ます。

しかしながら、よく分析すればジーヴァ・スルシュティがあると仮定していますが、実際私達によって作られた物など何もありません。

建てた家1つとっても、私達の意思や努力を含むので、何らかの真実はありますが、家が建っている土地は、私達の創造物ではなく、

建てたり、維持する為に必要な資材も私達の創造物ではありません。

神の創造物[イーシュワラ・スルシュティ]のみがあります。

イーシュワラ・スルシュティは、ダルマの法則も含みます。

この知識、ダルマの法則は、一般的に「良心、善悪の観念」と呼ばれますが、それはダルマとアダルマの常識的な知識、

宇宙創造の中に既にある事実として、誰もが持っている基本的な知識です。

重力の法則をはじめとする、他の法則が宇宙創造の一部として存在する様に、ダルマの法則も宇宙創造の一部として存在します。

イーシュワラが創造主であり、創造宇宙が創造主から離れていないなら、宇宙創造の一部であるダルマの法則もイーシュワラから離れてはいません。

ですからダルマはイーシュワラです。

同じ様に、カルマの法則もまたイーシュワラです。

これが、イーシュワラをダルマに見立てて祈る事が出来る理由です。

「ラーマは、アヴァターラである」と言う時、私達はどんな歴史も必要としません。

ラーマが存在していたかどうかは関係ないのです。

彼はただイーシュワラとして見なされて、尊敬されるのですから。

ラーマは人格化されたダルマなのです。

名前と形と言うのは、祈りと瞑想の為だけに与えられています。

それがラーマやクリシュナなどとして表現されています。

私達は宇宙創造の様々な要素からイーシュワラを見て、それらの要素の数々をデーヴァターと呼ばれる様々な異なる神々として表現します。

単にダルマと調和するだけなら道徳的な人ですが、もしダルマをイーシュワラとして見るなら、与えられた時と場所で、行うべき事を行う事で、それは祈りとなります。

ダルマは既に完成されてあるものであり、私達はそれを感じ取る様になります。

ですから、成すべきカルマを行う事で、私達はイーシュワラに祈っているのです。

世界はイーシュワラから現れ、イーシュワラによって支えられています。

「彼が世界を創造して、彼は眠りについた」というものではなく、宇宙創造は今進行中です。

創造[スルシュティ]、維持または存在[スティティ]、そして崩壊[サムハーラ]。

絶え間ない宇宙創造の過程が進行中です。

動物界、植物界のメンバー達はプログラムで、すべきことを振る舞い、宇宙創造に対して貢献します。

唯一人間だけがプログラムではないので、自分自身でそうする事を決めない限り、すべき事をしません。

都合が良い事を求め、楽しい事を求めます。

容易い満足感は、人間だけが求めます。

ですから人間は、自身で沢山のラーガ・ドヴェーシャを作り上げ、そのラーガ・ドヴェーシャが、様々な行いをする様、人を駆り立てます。

ダルマ(=イーシュワラ)に反する事は、イーシュワラである秩序に反して進む事であり、それはア・ダルマなのです。

バガヴァーンは言います。

イーシュワラに捧げるものは、いつも花である必要はありません。

あなたによって成されねばならない事をする事で、あなたはイーシュワラを祈っています。

私達1人1人が、それぞれ成すべき仕事を持ち、それを行った時イーシュワラと調和しています。

為すべき事をした時、満足があります。

例えそれが私の望まない何かでも、それをするなら偉大さを感じます。

何故ならイーシュワラとハーモニーの中にいるからです。

これを理解し、ヨーギーとなります。

ダルマの法則に従い、成さねばならない事をし、世界とハーモニーである事がカルマヨーガです。(=ヨーガハ カルマス カウシャラム)

ですから、私達はダルマとしてのイーシュワラを理解し行いを選択します。

そうする事で、行いはイーシュワラへのアルチャナ(貢献)の形になります。

この様な考え方が、きれいな考え、考えの聡明さ、つまりアンタッカラナ・シュッディと言う結果を実らせ

そして、自分とは何かの知識(ニャーナ)という全てのステップが完成されます。

これらのステップが、ギーターを通して述べられ、シャンカラもまたバーシャの中で繰り返し述べています。

カルマ・ヨーガを通して、考えはきれいになり

考えがきれいであれば、知識は起こり、モークシャが得られます。

ですからカルマ・ヨーガは、モークシャの為にだけにあります。