योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||
ダナンジャヤよ、 執着を手放し、ヨーガに留まり行いをしなさい
成功も失敗も同じに留まり、この考えの平静さがヨーガと呼ばれます
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人生において、神[īśvara]が、行いの結果を与える者[karma-phala-dātā]であると認識することは、samatvaと呼ばれる態度をもたらします。
執着と嫌悪[rāga-dveṣa]が、執着[saṅga]の原因であり、「これは私に起こるべきだ、または起こるべきではない」と言わせるものです。
karma-phalaに関する執着[saṅga]がある時にのみ、rāga-dveṣaとなりますが、samatvaの態度があれば、それは中和され、どんな反応も引き起こすことができなくなるのです。
これがカルマ・ヨーガの意味するところです。
ヨーガに留まること[yogastha]は、このsamatvaの態度を楽しむことを意味します。
成功[siddhi]と失敗[asiddhi]の両方に関して、この心の平静さがヨーガと呼ばれ、それがあなたをヨーギーにするものです。
この詩で、ヨーガを定義しています[samatvaṃ yogaḥ ucyate]。
第2章ではカルマ・ヨーガには2つの定義があり、1つはsamatvaで、もう1つが「yogaḥ karmasu kauśalam」です。
◎聖典で申し付けられている行いと4つのアーシュラマ
聖典で定められた儀式[vaidika-karma]は、以下の4つのカテゴリーに分類できます。
1.特定の人が望む特定の結果を生み出すための儀式[kāmya-karma]
2.日常的な儀式[nitya-karma]
3. 時折行われる儀式(四季折々の祭事)[naimittika-karma]
4.行われた過ちを正すための儀式[prāyaścitta-karma]
子供を望む人のための儀式[putra-kāmeṣṭi]があります。
ラーマの父ダシャラタ王は子供がいませんでした。
王として、彼の死後に王国を統治する者がいなければならなかったので、子供を持つ必要があり、彼はputra-kāmeṣṭiの儀式を行い、4人の子供を授かりました。
putra-kāmeṣṭiは現在でも行われており、非常に高価な儀式であるため、裕福な人しか行うことができません。
śraddhāがあれば、効果があると知られています。
ここで、ヴェーダがいかに巧妙であるかがわかります。
この種の儀式は、特定の望ましい結果のために純粋に行われる儀式[kāmya-karma]の例です。
kāmya-karmaは、ヴェーダによって仕組まれ展開されたものではありますが、これはkāmya-karmaが、心の浄化[antaḥ-karaṇa-śuddhi]のためのものであるという意味ではありません。
特定の儀式は特定の結果のために言及されており、子供を望むといった願望である望ましい対象[kāmya]のためだけのものです。
同様に、ヴェーダには天国を得るための多くの儀式が言及されていますが、これらも全てkāmya-karmaです。
次に、nitya-karmaとnaimittika-karmaがありますが、これらは一緒に考えることができます。
毎日行うべき儀式(祈り)が、nitya-karmaであり、どの儀式や祈りを行うかは、その人のポジションによって異なります。
未婚者[brahmacārī]は、2つのカルマを行う必要があります。
1つ目は、1日に3回(日の出、正午、日没)に行われる祈り[sandhyāvandana]、2つ目は、朝に1日1回行われる火の儀式[samidhādāna]で、「私が輝かしくなりますように。私が学べますように。自分自身を完全に制御できる人でありますように。」と祈りを捧げます。
既婚者、つまり家長[gṛhastha]の場合、nitya-karmaはやや異なります。
sandhyāvandanaは継続されますが、samidhādānaは、別の火の儀式[agnihotra]に置き換えられます。
これは、朝晩の1日2回行わなければなりません。
結婚式の日に火が灯され、その人がsanyāsaの生き方を選ぶか、死ぬまで消してはなりません。
既婚者がsanyāsa前に死亡した場合、この同じ火が遺体の火葬に使用されます。
したがって、家庭人[gṛhastha]の生活は献身的で宗教的な人生です。
これらのnitya-karmaは毎日必ず行わなければなりません。
家庭人[gṛhastha]の義務から離れ、次の人生の段階[vanaprastha-āśrama]に入ると、更に幾つかのカルマが追加され、これらは瞑想の性質を持っています。
この段階でも、sandhyāvandanaとagnihotraの儀式は続けなければなりません。
sanyāsaになると、これらの儀式を行うために以前に取った誓い[dīkṣa]は手放され、これらのカルマを行う義務を負わなくなります。
髪や、儀式で得た身の回り品も、ガーヤトリー・マントラを含めて手放され、残るのは「オームカーラ」と幾つかの必需品だけです。
天国や子宝に関心は無く、そして今後は誰も彼を恐れるべきではないことを宣言し、人はsanyāsīになります。
それは非常に重大なコミットメントです!
しかし、sanyāsaまでは、ヴェーダによって定められた様々な儀式を必ず行わなければなりません。
日常的な儀式[nitya-karma]を行うことで、再びプンニャや考えの浄化[antaḥ-karaṇa-śuddhi]という結果を得ますが、ここで重要な点は、それらは毎日行われるべきものだということです。
一方、特定の機会に行う儀式[naimittika-karma]というのは、例えば、父や母の命日に行う儀式などです。
śrāddhaと呼ばれるそのような儀式は、新月の日に毎月行わなければならず、命日はより手の込んだ儀式が行われます。
これもsanyāsaまで行われます。
特定の機会に行われる儀式[naimittika-karma]は、一般的に世帯を持つ人々によって行われますが、śrāddha-karmaは、sanyāsīを除く全ての人々によって行われます。
世帯を持つ人々によって行われる他のnaimittika-karmaには、冬至と夏至が始まる日に行われる儀式が含まれますし、日食と月食も、古代の計算方法に基づいています。
聖典[śāstra]が間違っていると思うなら、日食を待てと言われています!
ギーターの中で「カルマ」という言葉は、ヴァイディカ・カルマとして通常は使われますが、戦う事は「成さねばならない事」で、クシャットリアの義務としてのカルマでした。
こうしてカルマ・ヨーガは全ての活動をカバーします。
私達は、好き、嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]を中和するのです。
物事の捉え方の偏見の無さ[サマットヴァ]で行いをする時ラーガ・ドヴェーシャは中和されます。
この考えのあり方がカルマ・ヨーガです。
この詩の、サマットヴァの考えのあり方は、「行い」そのものではなく「結果[パラ]」に関しての受け止め方です。
この考えのあり方が、ヴェーダの文明に表れていてプラサーダブッディと呼ばれます。
ヴェーダにおいて「結果に期待することなく、行動を起こすべきだ」という伝統はありません。
これらが、カルマ・ヨーガの意味として、翻訳されているものもありますが、それらは、間違った翻訳です。
その様な解釈が、試してみたら分かりますが、更なるコンプレックスを作り出します。
カルマ・ヨーガのもう1つの定義「ヨーガハ カルマス カウシャラム」について
全ての人類において普遍的なダルマ(秩序)は、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。
サーマーンニャ・ダルマを元に、私達は世界と関わります。
この秩序はまさに基盤です。
数々の聖典もこれを確証していて、もしこの秩序に逆らうなら、パーパ(不快と苦痛を経験させられる状況)を作り出すと言います。
例えば、人の所有物を「盗む」ことは正しくないことという法は、普遍の法です。
左側通行の様な、人が作り出した協定に基づく法ではありません。
カルマヨーガの2つ目の定義「カウシャラ」は、正しく判断する為の私達の能力の事を言います。
行いの拠り所となるダルマに関する解釈、判断の能力が、思慮深さで、高度な専門知識です。
「カウシャラ」を「「行いに関しての技術」と翻訳されているもがありますが、それは間違いです。
イーシュワラを迂回する様にデザインされた非宗教的な翻訳です。
イーシュワラが理解され、受け入れられた時に限りカルマ・ヨーガがあります。
「あらゆる状況、結果をイーシュワラからの恩恵と見る」という講話を聴いた、ある泥棒が、他者の金庫を狙います。
金庫の中は空かもしれないし、金はあっても捕まるかもしれない、銃で撃たれるかもしれない、殴られるかもしれない、警察に突き出されて、何年も牢獄に入る羽目になるかもしれないし、あるいは大金持って逃げ去れる事が出来るかもしれません。
もちろん大金を持ち去る事が、泥棒の希望ですが、どんな状況が来ようとも、それをプラサーダとして受け取ります。
「もし私が全ての金を得たら、それはプラサーダですし、そして私が叩きのめされるなら一打、一打をプラサーダとして受け取ります。私はカルマヨーギーですよね?クリシュナ神が、ギーターの中でカルマヨーギーは、神に愛されると言っています。私は神に愛されたいのです。全てをプラサーダとして受け入れれば、私は愛されますか?」
カルマヨーガの1つ目の定義、イーシュワラ・プラサーダ・ブッディ、あらゆる状況、結果をイーシュワラからの恩恵として受け取るだけでは、こんな事を言い出す人がいるかも知れないので「ヨーガハ カルマス カウシャラム」イーシュワラ・アルパナ・ブッディというもう1つの定義があります。
カルマ・ヨーガの1つ定義は「サマットヴァム ヨーガハ ウッチャテー」です。
行いの結果に関しての反応に、サマ(偏見の無さ)があります。
サマットヴァのあり方を得るのは、全ての行いの結果を与えるカルマ・パラ・ダーターとしてのイーシュワラの認識があるからです。
カルマ・ヨーガのもう1つ定義が「ヨーガハ カルマス カウシャラム」です。
行いに関して、選択を練習する時にサーマンニャ・ダルマと、ヴィシェーシャ・ダルマがいつも決定基準となるべきです。
全ての人類において普遍的なダルマは、サーマーンニャ・ダルマと呼ばれます。
サーマーンニャ(सामन्यः [sāmanyaḥ])とは、総体的な、一般的な、という意味です。
一方、その時代や場所で変わるダルマは、ヴィシェーシャ・ダルマと呼ばれます。
ヴィシェーシャ(विशेषः [viśeṣaḥ])とは、特異な、特別な、という意味です。
文化や習慣、宗教の違いも、このヴィシェーシャ・ダルマに反映されます。
私達はラーガ・ドヴェーシャだけに従って進むのではなく、ダルマに従って進む時、道徳的な生活を営んでいます。
しかし、その様な生活はヨーガではないかも知れません。
イーシュワラを考慮される時に限り、ヨーガの意味があります。
ギーターは、すぐにはイーシュワラを論じず第3章ではじめて論じられます。
神、イーシュワラというのは、創造主であるだけではなく、創造された世界でもあります。
ですから創造世界はイーシュワラから離れてはいません。
イーシュワラは宇宙創造の知的な源、物質的な源り、両方なのです。
知的な源と材料の源の両方であるという地位が、イーシュワラという意味です。
ですからこれが、創造世界は創造主と離れていないという理由です。
一方、例え想像された世界なしでも、創造主は残るという意味で、創造主は創造世界から自立しています。
例えば世界消滅の時に全世界がイーシュワラに戻って行き、彼だけが残ります。
創造世界は私達が作る夢のようです。
夢がなかろうとあなたは残ります。
夢の世界は、あなたから独立してはいませんが熟睡中の様に、あなたはそれなしでも存在する事が出来ます。
同じように創造宇宙は、創造主、イーシュワラから離れてはいません。
私達の自由意志が含まれる創造物は、私達が作った創造物[ジーヴァ・スルシュティ]、
そして、世界の中で自然によって創造された物は、イーシュワラの創造物[イーシュワラ・スルシュティ]と見なす事が出来ます。
しかしながら、よく分析すればジーヴァ・スルシュティがあると仮定していますが、実際私達によって作られた物など何もありません。
建てた家1つとっても、私達の意思や努力を含むので、何らかの真実はありますが、家が建っている土地は、私達の創造物ではなく、
建てたり、維持する為に必要な資材も私達の創造物ではありません。
神の創造物[イーシュワラ・スルシュティ]のみがあります。
イーシュワラ・スルシュティは、ダルマの法則も含みます。
この知識、ダルマの法則は、一般的に「良心、善悪の観念」と呼ばれますが、それはダルマとアダルマの常識的な知識、
宇宙創造の中に既にある事実として、誰もが持っている基本的な知識です。
重力の法則をはじめとする、他の法則が宇宙創造の一部として存在する様に、ダルマの法則も宇宙創造の一部として存在します。
イーシュワラが創造主であり、創造宇宙が創造主から離れていないなら、宇宙創造の一部であるダルマの法則もイーシュワラから離れてはいません。
ですからダルマはイーシュワラです。
同じ様に、カルマの法則もまたイーシュワラです。
これが、イーシュワラをダルマに見立てて祈る事が出来る理由です。
「ラーマは、アヴァターラである」と言う時、私達はどんな歴史も必要としません。
ラーマが存在していたかどうかは関係ないのです。
彼はただイーシュワラとして見なされて、尊敬されるのですから。
ラーマは人格化されたダルマなのです。
名前と形と言うのは、祈りと瞑想の為だけに与えられています。
それがラーマやクリシュナなどとして表現されています。
私達は宇宙創造の様々な要素からイーシュワラを見て、それらの要素の数々をデーヴァターと呼ばれる様々な異なる神々として表現します。
単にダルマと調和するだけなら道徳的な人ですが、もしダルマをイーシュワラとして見るなら、与えられた時と場所で、行うべき事を行う事で、それは祈りとなります。
ダルマは既に完成されてあるものであり、私達はそれを感じ取る様になります。
ですから、成すべきカルマを行う事で、私達はイーシュワラに祈っているのです。
世界はイーシュワラから現れ、イーシュワラによって支えられています。
「彼が世界を創造して、彼は眠りについた」というものではなく、宇宙創造は今進行中です。
創造[スルシュティ]、維持または存在[スティティ]、そして崩壊[サムハーラ]。
絶え間ない宇宙創造の過程が進行中です。
動物界、植物界のメンバー達はプログラムで、すべきことを振る舞い、宇宙創造に対して貢献します。
唯一人間だけがプログラムではないので、自分自身でそうする事を決めない限り、すべき事をしません。
都合が良い事を求め、楽しい事を求めます。
容易い満足感は、人間だけが求めます。
ですから人間は、自身で沢山のラーガ・ドヴェーシャを作り上げ、そのラーガ・ドヴェーシャが、様々な行いをする様、人を駆り立てます。
ダルマ(=イーシュワラ)に反する事は、イーシュワラである秩序に反して進む事であり、それはア・ダルマなのです。
バガヴァーンは言います。
イーシュワラに捧げるものは、いつも花である必要はありません。
あなたによって成されねばならない事をする事で、あなたはイーシュワラを祈っています。
私達1人1人が、それぞれ成すべき仕事を持ち、それを行った時イーシュワラと調和しています。
為すべき事をした時、満足があります。
例えそれが私の望まない何かでも、それをするなら偉大さを感じます。
何故ならイーシュワラとハーモニーの中にいるからです。
これを理解し、ヨーギーとなります。
ダルマの法則に従い、成さねばならない事をし、世界とハーモニーである事がカルマヨーガです。(=ヨーガハ カルマス カウシャラム)
ですから、私達はダルマとしてのイーシュワラを理解し行いを選択します。
そうする事で、行いはイーシュワラへのアルチャナ(貢献)の形になります。
この様な考え方が、きれいな考え、考えの聡明さ、つまりアンタッカラナ・シュッディと言う結果を実らせ
そして、自分とは何かの知識(ニャーナ)という全てのステップが完成されます。
これらのステップが、ギーターを通して述べられ、シャンカラもまたバーシャの中で繰り返し述べています。
カルマ・ヨーガを通して、考えはきれいになり
考えがきれいであれば、知識は起こり、モークシャが得られます。
ですからカルマ・ヨーガは、モークシャの為にだけにあります。