योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||
ダナンジャヤよ、 執着を手放し、ヨーガに留まり行いをしなさい
成功も失敗も同じに留まり、この考えの平静さがヨーガと呼ばれます
-
人生において、神[īśvara]が、行いの結果を与える者[karma-phala-dātā]であると認識することは、samatvaと呼ばれる態度をもたらします。
執着と嫌悪[rāga-dveṣa]が、執着[saṅga]の原因であり、「これは私に起こるべきだ、または起こるべきではない」と言わせるものです。
karma-phalaに関する執着[saṅga]がある時にのみ、rāga-dveṣaとなりますが、samatvaの態度があれば、それは中和され、どんな反応も引き起こすことができなくなるのです。
これがカルマ・ヨーガの意味するところです。
ヨーガに留まること[yogastha]は、このsamatvaの態度を楽しむことを意味します。
成功[siddhi]と失敗[asiddhi]の両方に関して、この心の平静さがヨーガと呼ばれ、それがあなたをヨーギーにするものです。
この詩で、ヨーガを定義しています[samatvaṃ yogaḥ ucyate]。
第2章ではカルマ・ヨーガには2つの定義があり、1つはsamatvaで、もう1つが「yogaḥ karmasu kauśalam」です。
◎聖典で申し付けられている行いと4つのアーシュラマ
聖典で定められた儀式[vaidika-karma]は、以下の4つのカテゴリーに分類できます。
1.特定の人が望む特定の結果を生み出すための儀式[kāmya-karma]
2.日常的な儀式[nitya-karma]
3. 時折行われる儀式(四季折々の祭事)[naimittika-karma]
4.行われた過ちを正すための儀式[prāyaścitta-karma]
子供を望む人のための儀式[putra-kāmeṣṭi]があります。
ラーマの父ダシャラタ王は子供がいませんでした。
王として、彼の死後に王国を統治する者がいなければならなかったので、子供を持つ必要があり、彼はputra-kāmeṣṭiの儀式を行い、4人の子供を授かりました。
putra-kāmeṣṭiは現在でも行われており、非常に高価な儀式であるため、裕福な人しか行うことができません。
śraddhāがあれば、効果があると知られています。
ここで、ヴェーダがいかに巧妙であるかがわかります。
この種の儀式は、特定の望ましい結果のために純粋に行われる儀式[kāmya-karma]の例です。
kāmya-karmaは、ヴェーダによって仕組まれ展開されたものではありますが、これはkāmya-karmaが、心の浄化[antaḥ-karaṇa-śuddhi]のためのものであるという意味ではありません。
特定の儀式は特定の結果のために言及されており、子供を望むといった願望である望ましい対象[kāmya]のためだけのものです。
同様に、ヴェーダには天国を得るための多くの儀式が言及されていますが、これらも全てkāmya-karmaです。次に、nitya-karmaとnaimittika-karmaがありますが、これらは一緒に考えることができます。
毎日行うべき儀式(祈り)が、nitya-karmaであり、どの儀式や祈りを行うかは、その人のポジションによって異なります。
未婚者[brahmacārī]は、2つのカルマを行う必要があります。
1つ目は、1日に3回(日の出、正午、日没)に行われる祈り[sandhyāvandana]、2つ目は、朝に1日1回行われる火の儀式[samidhādāna]で、「私が輝かしくなりますように。私が学べますように。自分自身を完全に制御できる人でありますように。」と祈りを捧げます。
既婚者、つまり家長[gṛhastha]の場合、nitya-karmaはやや異なります。
sandhyāvandanaは継続されますが、samidhādānaは、別の火の儀式[agnihotra]に置き換えられます。
これは、朝晩の1日2回行わなければなりません。
結婚式の日に火が灯され、その人がsanyāsaの生き方を選ぶか、死ぬまで消してはなりません。
既婚者がsanyāsa前に死亡した場合、この同じ火が遺体の火葬に使用されます。
したがって、家庭人[gṛhastha]の生活は献身的で宗教的な人生です。
これらのnitya-karmaは毎日必ず行わなければなりません。
家庭人[gṛhastha]の義務から離れ、次の人生の段階[vanaprastha-āśrama]に入ると、更に幾つかのカルマが追加され、これらは瞑想の性質を持っています。
この段階でも、sandhyāvandanaとagnihotraの儀式は続けなければなりません。
sanyāsaになると、これらの儀式を行うために以前に取った誓い[dīkṣa]は手放され、これらのカルマを行う義務を負わなくなります。
髪や、儀式で得た身の回り品も、gāyatri-mantraを含めて手放され、残るのは「Oṁ-kāra」と幾つかの必需品だけです。
天国や子宝に関心は無く、今後は誰も彼を恐れるべきではないことを宣言し、人はsanyāsīになります。
それは重大なコミットメントです!
しかし、sanyāsaまでは、ヴェーダによって定められた様々な儀式を必ず行わなければなりません。
日常的な儀式[nitya-karma]を行うことで、再びプンニャや考えの浄化[antaḥ-karaṇa-śuddhi]という結果を得ますが、ここで重要な点は、それらは毎日行われるべきものだということです。
一方、特定の機会に行う儀式[naimittika-karma]というのは、例えば、父や母の命日に行う儀式などです。
śrāddhaと呼ばれるそのような儀式は、新月の日に毎月行わなければならず、命日はより手の込んだ儀式が行われます。
これもsanyāsaまで行われます。
特定の機会に行われる儀式[naimittika-karma]は、一般的に世帯を持つ人々によって行われますが、śrāddha-karmaは、sanyāsīを除く全ての人々によって行われます。
世帯を持つ人々によって行われる他のnaimittika-karmaには、冬至と夏至が始まる日に行われる儀式が含まれますし、日食と月食も、古代の計算方法に基づいています。
聖典[śāstra]が間違っていると思うなら、日食を待てと言われています!
ヴェーダにおいて「結果に期待せず行動せよ!」という伝統はありません。
カルマ・ヨーガの意味として、この様に翻訳されているものもありますが、それは間違った翻訳です。
試してみたら分かりますが、その様な解釈が、更なるコンプレックスを作り出すのです。
◎カルマ・ヨーガの別の定義
カルマ・ヨーガのもう一つ定義は、’’yogaḥ karmas kauśala’’です。
このkauśalaという言葉には様々な意味が与えられています。
これは、達人[kuṣala]の抽象名詞であり、達人を形作る資質を指すので、専門知識や技能がkauśalaであると言われてきました。
この意味から、カルマ・ヨーガの別の定義に対する現代的な翻訳が生まれました。
人々は『行為における技能がヨーガである』と言いますが、それは何らかの効率性を意味するように思われます。
効率性は常に望ましいものですが、それはカルマ・ヨーガの本質ではありません。
この翻訳の不適切さは、読み進めるにつれて明らかになるでしょう。
ギーターでは、kauśalaという言葉は通常、ヴェーダの儀式[vaidika-karma]に関して用いられますが、あらゆる行為[laukika-karma]と捉えるならば、それを人の生涯全体の観点から見なければなりません。
その場合、言及される行為とは、自分自身のあらゆるrāga-dveṣaを満たそうとして行う、全体的な活動の意味となります。
「行為において非常に熟練していればカルマ・ヨーギーである」という考え方も放棄されなければなりません。
これは、イーシュワラを迂回するために考案された世俗的な翻訳です。
イーシュワラを全く認識せずにギーターを読む多くの人々がいます。
行いの結果を与える者[karma-phala-dātā]としてイーシュワラを認識せずに、カルマ・ヨーガを望む人は、それを得ることはできません。
イーシュワラが認識されて初めてカルマ・ヨーガがあります。
カルマ・ヨーガは宗教的な態度、帰依者の態度ですから、これを避ける方法はありません。世俗的なカルマ・ヨーガなどというものはありません。
彼らは、行為が有能である時、その人がカルマ・ヨーギーであると言います。
ヨーギーは何をするにしても有能かもしれませんが、新しい仕事や、運転免許をとりたての場合、有能ではないでしょう。
必要な技能を習得していないなら、その点においては非効率的なので、カルマ・ヨーギーは特定の分野においては間違いなく非効率的でありえます。
逆に、ある分野で効率的だからといって、その人がヨーギーであるとは限りません。
例えば、スリは効率的に盗みますが、誰かががそれをするならば捕まるでしょう。
ある分野で有能だとしても、それはカルマ・ヨーガではないのです。イーシュワラが理解され、受け入れられた時に限りカルマ・ヨーガがあります。
◎何がカウシャラなのか?
ある泥棒のお話
「あらゆる状況、結果を神からのプラサーダと見る」という講話を聴いたある泥棒が、毛嫌いしている隣の家の金庫を奪う計画を立てます。家族と逃げる準備も、念密に計画しました。
金庫の中は空かもしれないし、金はあっても捕まるかもしれない、銃で撃たれるかもしれない、殴られるかもしれない、警察に突き出されて、何年も牢獄に入る羽目になるかもしれないし、あるいは大金持って逃げ去れる事が出来るかもしれません。
もちろん大金を持ち去る事が、泥棒の希望ですが、どんな状況が来ようとも、それをプラサーダとして受け取ります。
「もし私が全ての金を得たら、それはプラサーダですし、そして私が捕まって叩きのめされるなら、その一打一打の痛みもプラサーダとして受け取ります。私はカルマ・ヨーギーですよね?クリシュナ神が、カルマ・ヨーギーは、神に愛されるとギーターの中で言っています。私は神に愛されたいのです。全てをプラサーダとして受け入れれば、私は愛されますよね?」
カルマヨーガの1つ目の定義 「行いの結果を同じに受け取る[karma-phale samaḥ bhūtvā]」だけでは、こんな事を言い出す人がいるかも知れないので、もう1つの定義[yogaḥ karmas kauśala]があります。
1つ目の定義は、行いの結果に対するもので、もう1つの定義は、行いそのものに関するものです。
kauśalaとは、自身の選択における思慮深さで、正しく解釈する能力のことです。
sāmanya-dharmaを無視した選択ではありません。
人間の相互関係の「良い悪いのセンス」を考慮し、解釈するこの能力が、思慮深さであり、高度な専門知識です。
人間の相互関係の「良い悪いのセンス」を考慮することがdharma、その反対はadharmaと呼ばれます。
dharma-adharmaは、誰にでも当てはまる「良い悪いのセンス」があり、それらは絶対的ではなく、状況に応じて解釈されなければなりません。それらを適切に解釈できる人が、kuśalaと呼ばれるのです。
dharma-adharmaは、都合よく解釈されるべきではなく、何が適切であるかに沿って解釈されなければなりません。
dharmaの適切な解釈こそが、kauśalaが意味することで、kauśalaはヨーガです。
なぜなら、行動の選択において思慮深さを練習する時、rāga-dveṣaに左右されないからです。
◎ダルマとアダルマは普遍
この物語の男のrāgaはお金で、dveṣaは隣人です。
彼は自身のrāga-dveṣaに従い、そして、完全にdharma-adharmaに反しています。
これは、人間が作った取り組みだと言えませんか?
いいえ。仮に、ある特定の国に盗みに対する法律がないとしても、それが盗みとは呼ばれないという意味にはならず、依然として盗みと呼ばれるでしょう。
これは、右側通行などの、人間が作った規定とは違います。
右側通行をしなければ、危険ですし違法でもあり、例え「危険を冒す覚悟がある」などと主張しても、当事者だけではなく、他者にとっても危険ですから、警察は許したりしません。
ですから、規定は人間が作ったものと説明できますが、「盗むことは正しくない」という法則は、普遍的なものです。
誰も、自分の持ち物が無ければ、盗みは存在しませんが、誰もが自分の持ち物を持っています。
スワミーでさえ、物乞いの器とマーラーを持っていますが、それすら盗む泥棒がいますから、自分の物を持つ限り、盗むことがあるというのは、普遍的なことです。
dharma-adharmaは、普遍的なものであり、人間が作ったものではありません。
dharmaとは、人間が共通して感じることができるもので、お互いに影響し合います。
自分の所有物は、盗まれたくないし、他者も同じ様に盗まれたくありません。
そして自分は傷つけられたくありませんし、他のものも同じ様に傷つけられたくないのです。
人類共通のセンス、この秩序はdharmaと呼ばれ、私たちが他者と交流する際に従うべき、まさに根幹となるものです。
聖典はこのことを確証しており、もしこの秩序に反するならば、私がした行いが、私にpāpaを生み出すとも述べます。
聖典は、「汝、~すべし」「汝、~すべからず」といったdharma-adharmaについて、教えているのではなく、世界中の聖典は、良心というものが存在していることを確認しているに過ぎません。
聖典がある特定の時期に現れ、そこにdharmaが無いのを見つけて、それを確立するのではなく、人々は聖典が現れる前から、何が正しく何が間違っているのかを知っていたのです。
◎行いの選択は、基準を伴う
人間は行いにおいて選択の自由を持っていますから、この共通のセンス[dharma]は、人間が存在するためにあります。
もしこれらの規範、すなわちdharmaが存在しなければ、宇宙創造は欠陥のあるものとなるでしょう。
選択の自由を与えられながら、その選択に伴う規範を与えられないということはありません。
それは、まるで、運転の仕方を知らない酔っ払いにフェラーリを与えるようなもので、または、ブレーキのないフェラーリを誰かに与えるようなものです。
選択肢を与えられた場合、このセンスは教育を必要とせずに全ての人に共通であるべきというのは、ダルマの非常に重要な側面です。
選択肢が与えられたとしても、このセンスについての知識がなければ、宇宙創造における欠陥となるでしょう。
これらの規範について教育を受けなければならないとしたら、誰もがこの教育を受ける同じ機会を持つことはできません。
そうなると、ある人々は、盗んではいけない、傷つけてはいけないということを知らないために、盗んだり傷つけられたりすることになります。
教えられなくとも、私は盗んだり傷つけたりしてはいけないと知っていますし、他の人も盗まれたり傷つけられたりしたくない事を知っています。
これこそが共通のセンスなのです。
私が他者からされたくないことは、他の人も私からされたくない事を知っていますので、私達には共通の規範があり、そのdharmaに照らして自分のなすべき行動を解釈できる人がkauśalaを持つ人です。
さて、以前出てきたあの泥棒は、カルマ・ヨーガの定義の片側(samatva)しか満たしてなく、もう一方の部分(kauśala)が無いため、満たされないままです。
理解すらしておらず、まさにdharmaに反しています。
もし誰かが、彼のものを盗むなら、彼はそれを許しませんから、それは間違った行為なのです。
もし誰もが、自分のしたいことだけをするなら、他者を殴ったり、奪ったりと、ダルマに反することばかりで、秩序など無く、混乱だけが生じ、誰も自分の人生を生きることができなくなります。
今日でも世界には秩序があるので、私達は平和に暮らすことができ、ダルマがあるので、門や塀さえ持たない人もいるのです。
境界線というものがある以上、dharmaなんて無いとは言えませんが、人は時としてその選択する力を悪用しますから、もちろんadharmaもあります。
隣人宅を強盗しようとした男は、アルジュナと同様に「自分のrāga-dveṣaがそうさせようとも、dharmaに従わなければならない」と告げられなければなりません。
rāga-dveṣaは行動のレベルで抑制されます。
dharma-adharmaに合致しない、いつまでも残るrāga-dveṣaがあっても、私の心にはそれらを主張する者はいません。
私は、それらに従わいませんし、それらに関わりません。
それらは自然に現れては、自然に消えてしまいます。
私はただ、何がダルマで、何がアダルマかに従い進むのです。
◎カルマ・ヨーガ定義のまとめ
要約すると、カルマヨーガには2つの定義があります。
「samatvam yogaḥ ucyate」と「yogaḥ karmasu kauśala」です。
行いの結果に関する反応には、偏見の無さ[sama]があり、このsamatvaの態度を得れるのは、karma-phala-dātāとしてのイーシュワラの認識があるからです。
法則は、決してあなたを欺きませんから、カルマヨーギーとして、望ましい、望ましくない結果の両方に対して同じ態度[karma-phale samatva buddhiḥ]を持ちます。
次に、行いそのものに関して言えば、そこには選択が含まれますから、カルマヨーギーとして、一定の基準に基づき選択を練習します。
これらの基準は、ダルマとアダルマというルールによって示されます。
それらは普遍的であり、全ての人に共通の法則[sāmānya-dharma]です。
◎たとえ普遍的な法則ですら解釈と判断が必要
全ての人類において普遍的なダルマ[sāmānya-dharma]の、sāmanyaḥは、総体的な、一般的な、という意味です。
一方、その時代や場所で適応される、解釈されたダルマ[viśeṣa-dharma]の、viśeṣaḥは、特異な、特別な、という意味です。
例えば、右側通行で車を運転していたとしても、対向車が右側に入ってきたなら、それを避けるために、左側を走らなければならないように、例外というのがあります。
重力の法則も、ある規定の範囲内で働き、これは、バガヴァーンの法則ではありますが、地球上と同じ様に、宇宙ロケットの中では働いたりしません。
絶対的な法則というのはありませんが、それが普遍的でないという意味ではありません。
他者が抱くセンスと同様に、私にもそのセンスがありますからダルマは普遍です。
しかしながら、普遍であるものですら、その状況に合うよう解釈されなければなりません。
時に、誰かの命を救うために、嘘をつかなければならないかもしれません。
これが、解釈されたダルマ[viśeṣa-dharma]です。
文化や習慣、宗教の違いも、このviśeṣa-dharmaに反映されます。
◎カルマ・ヨーガはイーシュワラの理解を含む
ある行いに関して選択を練習する時には、常に普遍的なダルマ[sāmānya-dharma]と、解釈されたダルマ[viśeṣa-dharma]が決定要因となるべきです。
自分のrāga-dveṣaだけで進むことはできません。
ダルマに従い、rāga-dveṣaに従わないとき、道徳的な人生を送っていると言えますが、その様な人生はヨーガではないかもしれません。
イーシュワラを考慮される時に限り、ヨーガの意味があります。
ギーターは、すぐにはイーシュワラについて論じず、第3章で初めて言及されます(シャンカラの解説では、イーシュワラを説明しています)。
第18章の別の詩では、カルマヨーガにおけるイーシュワラの役割が説明されています。
यतः प्रवृत्तिर्भूतानां येन सर्वमिदं ततम्। स्वकर्मणा तमभ्यर्च्य सिद्धिं विन्दति मानवः।।18.46।।
彼から全てのものが現れ、彼によって全てが満たされています
自分の役割を担うことで、彼を祈ることで、人はスピリチュアルの成功を得ます
神[īśvara]は、ただ世界を創造しただけでなく、創造された世界そのものですから、世界はイーシュワラから切り離されていません。
イーシュワラは、宇宙を創り出した知的な源と同時に、物質的な源です。
何か物を作る時、作られたもの[kārya]は、材料から離れて存在することはありません。
イーシュワラは、知的源であると同時に、材料の源でもあるというステータス、これが「創造された世界は、創造主から離れていない」とされる理由です。
一方、創造された世界が滅びても、創造主は存在し続けます。
この意味において、創造主は創造された世界から自立していると言えます。
世界が滅びる時、全てのものはイーシュワラへと戻り、彼だけが残る、これはあたかも夢の世界のようです。
夢を見ていようがいまいが、私は存在し続けます。
夢の世界は私から独立してはいませんが、熟睡中の様に、夢がなくても私は存在できます。
同じ様に、創造された世界はイーシュワラから離れてはいませんが、イーシュワラは創造世界がなくても存在し続けるのです。
私が何かを創造する際、そこには私の自由意志が反映されるため、私の創造物[jīva-sṛṣṭi]であると言えます。
同様に、世界に存在する自然の創造物は、神の創造物[īśvara-sṛṣṭi]と見なすことができます。
しかし、私という「創造主」は、ごく一部の真実しか持ち合わせていません。
例えば、家を建てた時、それが完全に私の創造物であるとは言えません。
確かに、私の意思と努力は存在しますが、家が建つための土地、。家が存在することを可能にする法則、建設や維持に必要な資材も、私が作ったものではありません。
この様に、私の「創造」は、私以外の多くの要素に依存しています。
「jīva-sṛṣṭi」という概念はあっても、実際、私によって完全に創造されたものなど何もありません。
◎宇宙創造の法則は創造主から離れていない
この肉体も、作るのに必要なパワーも、私によって作られたのではなく、神の創造物[īśvara-sṛṣṭi]だけがあるのです。
īśvara-sṛṣṭiは、ダルマの法則をも含み、その法則の作者は私ではありません。
私は、ただ、その法則を認識するだけです。
重力は、人も猿も鳥も認識していると思われます。
鳥は、空を飛び立つために、何をすべきかを知っていますから、どんな生き物も、少なくともこれらの法則を知っているようです。
動物によって、本能として知られている法則の数々は、常識として知られていますし、ダルマの法則も、同じように知られています。
教えられなくとも、私たちは、正しい事、間違っている事を知っていて、これが、善い悪いのセンス[dharma-adharma]の知識です。
宇宙創造の中に、既にある事実として、誰もが持つ基本的な知識です。
ちょうど、ある法則が宇宙創造の一部として存在するように、ダルマの法則も宇宙創造として存在します。
神が創造主で、創造宇宙が創造主から離れていないなら、宇宙創造の一部であるダルマの法則もイーシュワラから離れてはいません。
ですから、ダルマはイーシュワラですし、カルマの法則もイーシュワラです。
これが、神をダルマに見立てて祈ることができる理由で、更に私達は、神を手足を持つラーマの形にもします。
ラーマがアヴァターラと言う時、本当に存在していたかどうかは関係なく、ラーマは、ただ神として見なされ、尊敬される、人格化されたダルマなのです。
歴史は、歴史的な出来事に関して問題を持つ人だけに必要なものです。
神に関する観念がある人は、歴史を必要としますが、私たちはそれを必要とせず、名前や形は、祈りと瞑想のためだけに与えられています。
それが、ラーマやクリシュナとして表現されているのです。
クリシュナ神と呼ばれる、手にフルートを持つ姿に、たまたま表現された喜びに他なりませんから、クリシュナが存在したかどうかという事は、重要ではありません。
その本質が喜び[ānanda-svarūpa]である神[parameśvara]に与えられた特別な名前と形なのです。
同様に、ラーマはダルマとして描写された神[parameśvara]です。
創造宇宙の様々な要素から神を見て、それらの要素を、さまざまに異なる神々[devatā]として表現します。
単にダルマと調和するだけなら、道徳的な人ですが、もしダルマを神として見るなら、与えられた時と場所で、私がすべき事をすることで、神を祈るのです。
ダルマは、既に完成されてあるもので、私がそれを認識するので、すべき事をします。
クリシュナの言葉「私達は、すべき事をすることで、神に祈っている」が、どの様に出来るのかも、知らなければならないことです。
◎創造宇宙の中のどんなものも、それ自身のダルマをもっている
この世界はイーシュワラから現れ、その力によって常に支えられています。
イーシュワラは単に世界を創造しただけでなく、「神が世界を創造して眠りについた」という考えとも異なります。
この創造宇宙のサイクル(創造[sṛṣṭi]、維持[sthiti]、崩壊[saṁhāra])は、今この瞬間も絶え間なく進行しています。
あらゆる瞬間に新しい細胞が生まれ、新しい生命が誕生するように、「生まれ、存在し、そして過ぎ去る」という過程が常に繰り返されているのです。
木々や虫、動物、人間といった地球上の様々な生命体は、それぞれが期待された通りに振る舞うことで、この宇宙全体の円滑な進行に貢献しています。
例えば、メイプルの木が冬が来る前に葉の色を変えるのも、葉緑素を作り二酸化炭素を取り入れて酸素を吐き出すのも、すべてプログラムされた通りに行われているのです。
だからこそ、メイプルは常に甘く、レモンは常に酸っぱいのです。
オレンジはオレンジ、レモンはレモンであり、たとえ変化があったとしても、それは宇宙のプログラムによるものです。
木々が意図的に何かを決定するのではなく、宇宙創造のプロセスの一部として、プログラムされた通りに振る舞います。
イーシュワラが世界の姿そのものであり、創造宇宙そのものであるため、草の葉一枚に至るまで全てのものがイーシュワラの創造物です。
植物界のメンバーは自由意志を持たず、期待された通りに振る舞います。
動物界も同様に、カタツムリはカタツムリ、ライオンはライオンであり、それぞれがプログラムされた通りに行動します。
彼らは自身の役割を認識しているわけではありませんが、そのように行動することで生命を維持しています。
例えば、七面鳥でさえ、人間が収穫祭のために選ばなければ、自力で生き残る術を知っているのです。
◎人間だけがプログラムされていない
動物、例えば子犬は、名前を呼ばれたら、クッキーをもらえる等、楽しいことがあると結びつけるため、呼ばれればすぐに来ます。
しかし、人間の子どもは、クッキーがあってもなくても、呼ばれても来ないことがあります。
これは、子どもが単に動物以上の存在であり、幼い頃から自身の自由意志を持っているためです。
この自由意志は、特に来客時など、親が子どもに特定の振る舞いを求める際に問題となります。
もし子どもが他者の評価を気にするなら、自然な振る舞いができなくなる可能性があります。
大人になっても、私たちの心配事のほとんどは「他者がどう思うか」に基づいています。
これは他の動物には見られない問題です。
牛は誰かにどう思われるかを気にせず騒ぎ、犬は吠えたい時に吠え、ロバは鳴きたい時に鳴き、ライオンは吠えたい時に吠える。
カエルは水があれば集まって大合唱をしますが、これも他人の迷惑を考えることはありません。
しかし、人間だけがこの問題を抱えています。
なぜなら、人間は自由意志と自己イメージを持っており、その自己イメージの半分は他者からの評価に依存しているからです。
そのため、人間は自らが決意しない限り、すべきことをしない可能性があるのです。