2019/10/05
योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||
ダナンジャヤよ。執着を手放し
成功にも失敗にも同じに留まり
ヨーガに留まり行いをしなさい
考えに偏見のない事からの平静な生き方が
ヨーガと呼ばれます[2-48]
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①カーミャ・カルマ
誰かに望まれた何らかの結果を生み出す為の儀式
②ニッテャ・カルマ
毎日の儀式
③ナイミッテャ・カルマ
特別な日時に行われる儀式
④プラーヤシュチッタ・カルマ
間違った行いを正す為の儀式
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プラーヤシュチッタ・カルマは
間違った行いの結果を、中和する事が出来ます。
その例えが、チャーンドラーヤナです。
1カ月に食べる食べ物の量を調整します。
満月の日に始め、次の日食べる量を15分の1を減らします。
次の日又15分の1。
これを何も食べない新月の日まで続け
新月の次の日[プラタマー]に
15分の1を食べ、次の日には15分の2を食べ
満月の日まで、15分の1量を増やします。
この期間中が、ある種の儀式になります。
プラーヤシュチッタ・カルマは
償いのカルマです。
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カルマヨーガでは、カーンミャ・カルマを手放します。
イーシュワラに捧げるものとして
同様に、考えを整理する為
ニッテャ・ナイミッテャ・カルマを行います。
考えを整理する[アンタッカラナシュッディ]の目的で
ヴァイディカの儀式を行い
カルマ・ヨーギーとなります。
「そうでない場合は、カルミーです」
とシャンカラは、ここで述べています。
はっきりと確かめられた理解[ヴャヴァサーヤートミカ・ブッディ]があれば
全てのカルマがモークシャに向かいます。
モークシャはカルマで得れません。
カルマは考えを準備する為です。
カルマを通し、考えを準備する事は
私達にとってヨーガとなります。
ギーターの中で「カルマ」という言葉は
ヴァイディカ・カルマとして通常は使われますが
戦う事は「成さねばならない事」で、
クシャットリアの義務としてのカルマでした。
こうしてカルマ・ヨーガは全ての活動をカバーします。
私達は、好き、嫌い[ラーガ・ドヴェーシャ]
を中和するのです。
物事の捉え方の偏見の無さ[サマットヴァ]で
行いをする時ラーガ・ドヴェーシャは中和されます。
この考えのあり方がカルマ・ヨーガです。
この詩の、サマットヴァの考えのあり方は
「行い」そのものではなく
「結果[パラ]」に関してです。
この考えのあり方が、ヴェーダの文明に表れていて
プラサーダブッディと呼ばれます。
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「結果に期待することなく、行動を起こすべきだ」
ヴェーダにおいて、この様な伝統はありません。
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これらが、カルマ・ヨーガの意味として
翻訳されているものもありますが
それらは、間違った翻訳です。
その様な解釈が、更なるコンプレックスを作り出します。
試してみたら分かります。