2019/11/16
योगस्थः कुरु कर्माणि सङ्गं त्यक्त्वा धनञ्जय ।
yogasthaḥ kuru karmāṇi saṅgaṃ tyaktvā dhanañjaya |
सिद्ध्यसिद्ध्योः समो भूत्वा समत्वं योग उच्यते ॥२.४८॥
siddhyasiddhyoḥ samo bhūtvā samatvaṃ yoga ucyate ||2.48||
ダナンジャヤよ。執着を手放し
成功にも失敗にも同じに留まり
ヨーガに留まり行いをしなさい
考えに偏見のない事からの平静な生き方が
ヨーガと呼ばれます[2-48]
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神の創造物[イーシュワラ・スルシュティ]のみがあります。
イーシュワラ・スルシュティは、ダルマの法則も含みます。
この知識、ダルマの法則は、一般的に「良心、善悪の観念」と呼ばれますが、それはダルマとアダルマの常識的な知識、
宇宙創造の中に既にある事実として、誰もが持っている基本的な知識です。
重力の法則をはじめとする、他の法則が宇宙創造の一部として存在する様に、ダルマの法則も宇宙創造の一部として存在します。
イーシュワラが創造主であり、創造宇宙が創造主から離れていないなら、宇宙創造の一部であるダルマの法則もイーシュワラから離れてはいません。
ですからダルマはイーシュワラです。
同じ様に、カルマの法則もまたイーシュワラです。
これが、イーシュワラをダルマに見立てて祈る事が出来る理由です。
「ラーマは、アヴァターラである」と言う時、私達はどんな歴史も必要としません。
ラーマが存在していたかどうかは関係ないのです。
彼はただイーシュワラとして見なされて、尊敬されるのですから。
ラーマは人格化されたダルマなのです。
名前と形と言うのは、祈りと瞑想の為だけに与えられています。
それがラーマやクリシュナなどとして表現されています。
私達は宇宙創造の様々な要素からイーシュワラを見て、それらの要素の数々をデーヴァターと呼ばれる様々な異なる神々として表現します。
単にダルマと調和するだけなら道徳的な人ですが、もしダルマをイーシュワラとして見るなら、与えられた時と場所で、行うべき事を行う事で、それは祈りとなります。
ダルマは既に完成されてあるものであり、私達はそれを感じ取る様になります。
ですから、成すべきカルマを行う事で、私達はイーシュワラに祈っているのです。
世界はイーシュワラから現れ、イーシュワラによって支えられています。
「彼が世界を創造して、彼は眠りについた」というものではなく、宇宙創造は今進行中です。
創造[スルシュティ]、維持または存在[スティティ]、そして崩壊[サムハーラ]。
絶え間ない宇宙創造の過程が進行中です。
動物界、植物界のメンバー達はプログラムで、すべきことを振る舞い、宇宙創造に対して貢献します。
唯一人間だけがプログラムではないので、自分自身でそうする事を決めない限り、すべき事をしません。
都合が良い事を求め、楽しい事を求めます。
容易い満足感は、人間だけが求めます。
ですから人間は、自身で沢山のラーガ・ドヴェーシャを作り上げ、そのラーガ・ドヴェーシャが、様々な行いをする様、人を駆り立てます。
ダルマ(=イーシュワラ)に反する事は、イーシュワラである秩序に反して進む事であり、それはア・ダルマなのです。
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バガヴァーンは言います。
イーシュワラに捧げるものは、いつも花である必要はありません。
あなたによって成されねばならない事をする事で、あなたはイーシュワラを祈っています。
私達1人1人が、それぞれ成すべき仕事を持ち、それを行った時イーシュワラと調和しています。
為すべき事をした時、満足があります。
例えそれが私の望まない何かでも、それをするなら偉大さを感じます。
何故ならイーシュワラとハーモニーの中にいるからです。
これを理解し、ヨーギーとなります。
ダルマの法則に従い、成さねばならない事をし、世界とハーモニーである事がカルマヨーガです。(=ヨーガハ カルマス カウシャラム)
ですから、私達はダルマとしてのイーシュワラを理解し行いを選択します。
そうする事で、行いはイーシュワラへのアルチャナ(貢献)の形になります。
この様な考え方が、きれいな考え、考えの聡明さ、つまりアンタッカラナ・シュッディと言う結果を実らせ
そして、自分とは何かの知識(ニャーナ)という全てのステップが完成されます。
これらのステップが、ギーターを通して述べられ、シャンカラもまたバーシャの中で繰り返し述べています。
カルマ・ヨーガを通して、考えはきれいになり
考えがきれいであれば、知識は起こり、モークシャが得られます。
ですからカルマ・ヨーガは、モークシャの為にだけにあります。