2019-12-25

【ギーター】第2章50番目の詩①

2019/12/21

बुद्धियुक्तो जहातीह उभे सुकृतदुष्कृते ।

buddhiyukto jahātīha ubhe sukṛtaduṣkṛte |

तस्माद्योगाय युज्यस्व योगः कर्मसु कौशलम् ॥२.५०॥

tasmādyogāya yujyasva yogaḥ karmasu kauśalam ||2.50||

偏見の無い考え[サマットヴァ・ブッディ]を授かった人は

この世界でのプンニャ・パーパも手放します

ですから、あなた自身をカルマヨーガに没頭させなさい

カルマ・ヨーガは行いに思慮分別がある事です。[2-50]

ブッディ・ユクタはカルマ・ヨーギーのことを意味します。

ヨーガというブッディを持ち、カルマ・ヨーガの生き方に専念している人です。

その人は、この世界[イハ]において、生きていながらにしてプンニャとパーパを手放します。

スクルタというのは、正しく行われる事、適切な行い

ドゥシュクルタはその反対を意味します。

適切な、あるいは適切でない行いの両方が結果を作り出し

その結果もまたス・クルタとドシュ・クルタと呼ばれます。

ですからスクルタ・ドゥシュクルタは、プンニャとパーパを意味します。

カルマ・ヨーギーとはいえ、「行いをする人」という観念を持ちますので

カルマ・ヨーギーは結果を手放す事は出来ません。

しかし、カルマ・ヨーギーは、自分自身をある程度に統括した人で

イーシュワラとのハーモニーがあり、平静を楽しむことが出来ます。

行い手としての性質[カルトゥルットヴァ]を持ちますが

カルマ・ヨーガがある時『知識』はそれほど遠いものではありません。

考えの整理整頓[サットヴァ・シュッディ]を道具とし

この世界においてプンニャとパーパを手放し、そして『知識』が得られます。

聖典の中で、この順番が大切な事の1つです。

適切な考え方でカルマを行う事で、『知識』により完全に解き放たれる為の準備をします。

『知識』は考え[アンタッカラナ]がきれい[シュッダ]である時だけ得られます。

1度でも考えの不純さ[アシュッディ]が処理されたなら

人は、もはや好き嫌いの魅惑の下にはいません。

その人はある程度の平静さを楽しみますから

自分自身の知識[アートマ・ニャーナ]は遠くありません。

カルマ・ヨーギーが、カルマ・ヨーギーであるのは、モークシャの為だけだ、とシャンカラは指摘します。

自分自身の知識[アートマ・ニャーナ]の為だけにカルマ・ヨーギーなのです。

その人は教えを聞き続け、それを熟考し、それがリアルになっていきます。

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