2020/02/01
यदा ते मोहकलिलं बुद्धिर्व्यतितरिष्यति ।
yadā te mohakalilaṃ buddhirvyatitariṣyati |
तदा गन्तासि निर्वेदं श्रोतव्यस्य श्रुतस्य च ॥२.५२॥
tadā gantāsi nirvedaṃ śrotavyasya śrutasya ca ||2.52||
あなたの知性が妄想である不浄を超える時
今まで聞いて来た事や、これから聞かねばならないであろう事に
平静さを得るでしょう[2-52]
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私の問題の解決は、わたし自身であるのに
それが私の外にある様に私達は思います。
この世界で「わたし」に集約される解決を
外に解決を期待する程、大きな妄想はありません。
この大きな妄想[マハーモーハ]は
「私とは何か」
「世界は何を与える事が出来るのか」
「私の問題は何か」
「私は本当に何を望むのか」
などの理解の欠乏の為です。
この妄想という不浄(カリラ)は、
わたしと、わたしでないものの識別
[アートマー・アナートマー・ヴィヴェーカ]で手放されます。
「私は限りがない」
「私はブランマンである」
「私は全体である」
「私はここにある全てである」
ウパニシャドは言います。
誰が、これを改善する事が出来ますか?
誰もサト・チト・アーナンダを改善する事は出来ません。
それは私自身ですから、誰も退ける事が出来ません。
世界からやって来るものは何であれ、
ブランマンから離れて独立してあるものではありません。
世界の外から何も現れることはないし、
ブランマン以上のものは何もやって来れません。
それは唯一[エーカ]ですから。
これを知る事が見極める事、識別する事[ヴィヴェーカ]を意味します。
価値観がはっきりし、人間の追求の妄想が理解され
妄想(モーハ)を持たなければ、ヴェーダであろうが、他の情報源からであろうが
これから聞くであろうこと、過去聞いてきたことに対し
私は自分自身に平静さ[ニルヴェーダ]を見つけます。
私の考えが、モーハの魔力のもとにない時、
聞いてきて事、まだ聞いていない事に関しての
ヴァイラーギャを得ると、この詩は言っています。
様々な手段や、その結末について聞いてきたかもしれません。
聞いてきたこと[シュルタ]があります。
まだ聞いていない、手段とその結末があり
それらは、後程聞かれるべき事[シュロータッヴャ]の分類のに入ります。
聞いて来た事、聞くであろう事
つまり、私に知られているもの全ての執着が落ちてしまう
この平静は本当に美しいものです。