
श्रुतिविप्रतिपन्ना ते यदा स्थास्यति निश्चला ।
śrutivipratipannā te yadā sthāsyati niścalā |
समाधावचला बुद्धिस्तदा योगमवाप्स्यसि ॥२.५३॥
samādhāvacalā buddhistadā yogamavāpsyasi ||2.53||
あなたの考えが、(様々な方法と、得られるゴールを示す)ヴェーダによって、もはや取り乱されない時
考えはしっかりとどまり、自分自身を成し遂げます。それで、あなたは自分自身の知識を得るでしょう[2-53]
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この詩は、考えの平静さ(安定した知性)がモークシャへと導くことを教えています。
ヴェーダ[śruti]の教えは、多様な目標と手段を説くため、人の考えを混乱させがちです。
しかし、あらゆる制限からの自由を求め、考えがそこに集中[eka]すると、シュルティが示す様々な手段や目標によって心が揺さぶられることはなくなります。
シャンカラは、「全てのものがその中に解決するもの、それがアートマー」とし、サマーディという言葉がアートマーを意味することを明確にしています[samyag ādhīyate cittam asminn iti samādhiḥ]。
真のゴールが明らかになった時、考えは、ラーガ・ドヴェーシャに捕らわれることなく、アートマーにしっかりと落ち着きます。
この、ゴールが明白で、考えが安定した状態こそがカルマ・ヨーガであり、ムムクシュは、自己の知識を通してモークシャを達成します。
◎疑いの可能性
アートマーに関する疑念(自由か束縛か、有限か無限か、イーシュワラか否か、など)が存在する可能性があります。
ムムクシュにとって、疑いのない知識こそが真のヨーガです。
アートマーに関する際限のない疑いを克服し、知性が疑い[vikalpa]なしに安定した状態が、知識[jñāna]、すなわち本当のヨーガです。
自分ではない限られたものを、自分だと受け入れてしまう識別の無さ[aviveka]が、苦悩からの解放[duḥkha-samyoga]を生み出しています。
この苦悩[duḥkha]を解くには、アートマーとアナートマーを識別するが必要です。
全てが私自身であり、私は全てから自由であると識別した時、そこにパラマールタ・ヨーガがあります。
ここでクリシュナが言う「ヨーガ」は、シャンカラが識別知[viveka-prajñā]と説明するように、アートマーとアナートマーを識別する知識に他なりません。
識別の無さが、悲しみ[duḥkha]の結果です。
アートマーに関する疑いを完全に断ち切り、「自分は真に自由で限りがない」という識別を確立することが、真のヨーガであり、苦悩からの解放[duḥkha-samyoga]をもたらします。
◎アルジュナの最初の質問
この詩は、それまでに語られたカルマ・ヨーガ(最初の行)とサーンキャ・ヨーガ(後ろの行)の教えを統合し、要約しています。
「ブッディが、シュルティによって混乱させられなくなる時、考えは安定する[śrutivipratipannā te yadā sthāsyati niścalā ]」は、カルマ・ヨーガを説きます。
「考えはしっかりとどまり、自分自身を成し遂げる時、あなたはヨーガを得る[samādhāvacalā buddhistadā yogamavāpsyasi]」は、知識[sāṅkhya]を説きます。
クリシュナはギーター全体を通じて、単に命令したり、一方的に伝えるのではなく、アルジュナの疑問や誤解、考えの状態に合わせて段階的に教えを展開します。
もしアルジュナが第2章で「全て理解した」と言うなら、そこで対話は終わってしまい、ギーターの残りの部分(バクティ・ヨーガ、ヴィシュヴァルーパ・ダルシャナ、グナの理論など)が語られる機会はなかったでしょう。
ギーターは対話[saṁvāda]であり、この教えは盲信ではなく「理解」されなければならない主題です。
信仰は、語られたことをただ信じるだけであり、説明を必要としません。
理解は、読んだ本の数に関わらず、本当に納得するかしないかのどちらかです。
この主題は理解されるべきもので、クリシュナ自身も「適切な質問をすることで知識を得る」と述べています。
アルジュナが次に質問をしたように、たとえ質問が不完全であっても、正しい答えが導かれることになります。
アートマーの教えは盲目的に信じるものではなく、対話と質問を通じて自ら「理解」することが不可欠なのです。
