
अर्जुन उवाच ।
arjuna uvāca |
स्थितप्रज्ञस्य का भाषा समाधिस्थस्य केशव ।
sthitaprajñasya kā bhāṣā samādhisthasya keśava |
स्थतधीः किं प्रभाषेत किमासीत व्रजेत किम् ॥२.५४॥
sthitadhīḥ kiṃ prabhāṣeta kimāsīta vrajeta kim ||2.54||
アルジュナが言いました。
ああ、ケーシャヴァ。アートマーの中に考えが定着している人、揺るがぬ知性の人の描写はどのようなものですか? どんなことにも考えが揺さぶられない人は、どのように話しますか、座りますか、また、歩くのですか?
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アートマーの知識に疑いや曖昧さを持たない人がスティタ・プラッグニャと呼ばれ、その知識は「私が全体であるという知識」に深く根付いて揺るぎがない状態です。
アルジュナはクリシュナに対し、このスティタ・プラッグニャが「どのように話すのか、座るのか、歩くのか」と尋ねました。
クリシュナが話しているにも関わらず「賢者は話すのか?」と問うのは不自然ですから、アルジュナの真の意図は「賢者がアートマーの知識を得た結果、どのように世界と関わるのか」を知りたかったのです。
コミュニケーションにおいて、言葉の表面的な意味だけでなく、話し手が伝えようとしている真の意図や感覚を理解する、この理解力が賢者の振る舞いを把握する上でも鍵となります。
◎アルジュナの質問の真意
クリシュナは、質問の裏にあるアルジュナの真の関心事に答えました。
もしクリシュナが、表面的な質問(賢者はどのように歩くか、話すか)に答えていたとしたら、その答えは「ゆっくり話す」「用心深く間を取る」といった、賢者の本質とは無関係な、単なる行動や、一般の人々が抱きがちな表面的なイメージになってしまったでしょう。
実際、ゆっくり話すことや、ほとんど話さないことで、賢者のふりをする者がいるように、そうした外面的な描写には意味がなく、人々を惑わす可能性があります。
また、「言葉が及ばないほどの計り知れないエネルギーを持つ」といった、現実離れした描写や、常にサマーディにいるといった極端な描写も、賢者の本質的な特徴とはいえません。
それらの描写は、賢者の本質を示すものではないので、アルジュナの質問にそのまま答えることは意味がありませんでした。
アルジュナの質問の真意は、賢者[sthitaprajña]は、アートマーの知識を得たことによって、どのように世界と関わるのか?」「その知識が、どのように現れるのか?」という点にありました。
これが、アルジュナが本当に尋ねたかったことで、クリシュナ神が次の詩で答える質問の本質でした。
