2020/04/04
श्रीभगवानुवाच ।
śrībhagavānuvāca |
प्रजहाति यदा कामान् सार्वान् पार्थ मनोगतान् ।
prajahāti yadā kāmān sārvān pārtha manogatān |
आत्मन्येवात्मना तुष्टः स्थितप्रज्ञस्तदोच्यते ॥२.५५॥
ātmanyevātmanā tuṣṭaḥ sthitaprajñastadocyate ||2.55||
シュリーバガヴァーン言う
アルジュナよ。考えに表れた全ての欲望を手放し、
自分自身に幸せであり、自分自身といて幸せな人である時
その人は知識に根付いた人と言われます[55]
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欲望を満たす時だけが幸せな人は
「人が全ての欲望を手放したなら、その人にはアーナンダ(幸せ)は、無いのでは?」
と考えるかもしれません。
この疑問に答える為に、2つのことを良く考えるべきです。
1.人は、本当に幸せではないのか?
2.人は、幸せになる為に、欲望を満たす為にあくせく働いている
ということ。
時々幸せになるので、幸せは来るものとして、人は幸せを望みます。
欲望を求める人は、いつも幸せの為にあくせく働いていますが
全ての欲望を手放してしまった人は、幸せになる手段などありません。
更に、幸せが無く、誰も長い時間留まる事など出来ません。
「その人はその人自身といて幸せなのだ」と
バガヴァーンは言い、この一連の考えを正します。
外側の支えや環境がなくても、その人は幸せなのです。
例えるなら、砂糖は甘いものですが
甘さ継続の為に、他の甘味料を足す必要などありません。
甘さの飽和状態、それが砂糖です。
同じように幸せな人[トゥシュタハ]は
幸せの為に、他のものや状況に頼らず
自分自身に、自分自身が気づいている事で幸せです。
その様な人がスティタプラッニャと呼ばれます。
スティタは、良く確立された事を意味し
プラッニャは、わたしとわたし以外の分析とその識別
[ヴィヴェーカ]がもたらす知識、とシャンカラ先生は解説します。
この知識がしっかり確立した人が、スティタプラッニャ
あるいは賢者[ヴィドヴァーン]と呼ばれます。
ラーガ・ドヴェーシャは、どちらも欲求[カーマ]です。
得たいもの、守りたいもの、避けたいもの、取り除きたいもの
このラーガ・ドヴェーシャには
「束縛するもの」と「束縛しないもの」という2つのタイプがあり
ラーガ・ドヴェーシャと言う形のカーマを、シャーストラが語る時
それは「束縛するもの」だけを話しています。
「束縛しないもの」は、問題無いからです。
クリシュナは、教えたいという欲求がありました。
戦場の真っ只中ということも気にせず、アルジュナに教えました。
マハーバーラタと呼ばれる大きな作品を書き上げたヴャーサも
書き続けたいなど、多くのの欲求があったはずです。
人は、何かを成し遂げたいという欲求を持ちますが
しばらくして、それを諦めます。
何かを始めますが、やり遂げません。
ヴャーサは違い、マハーバーラタを完成させました。
もし欲求がなければ、賢者は教える事が出来ません。
残念な事に近年の幾つかのギーターの解説は
''全ての欲求を手放すこと''の意味が
束縛しない欲求までも手放す、と解釈されます。
シャンカラ先生の解説書に従うなら、クリシュナが言う事は明確です。
近年の間違った解釈などあり得ません。