2020-04-17

2020/04/04【ギーター】第2章54番目の詩

श्रीभगवान् 1/1 उवाच III/1 ।

प्रजहाति III/1 यदा 0 कामान् 2/3 सार्वान् 2/3 पार्थ 8/1 मनोगतान् 2/3 ।

आत्मनि 7/1 एव 0 आत्मना 3/1 तुष्टः 1/1 स्थितप्रज्ञः 1/1 तदा 0 उच्यते III/1 ॥२.५५॥

シュリーバガヴァーン言う

アルジュナよ。考えに表れた全ての欲望を手放し、

自分自身に幸せであり、自分自身といて幸せな人である時、その人は知識に根付いた人と言われます[54]

”欲望を満たす時だけが幸せ”という認識の人は

「人が全ての欲望を手放したなら、その人にはアーナンダ(幸せ)は、無いのでは?」

と考えるかもしれません。

この疑問に答える為に、2つのことを良く考えるべきです。

1.人は、本当に幸せではないのか?

2.人は、幸せになる為に、欲望を満たす為にあくせく働いている

ということ。

時々幸せになるので、幸せは来るものとして、人は幸せを望みます。

欲望を追いかける人々は

いつも幸せの為にあくせく働いていますが

全ての欲望を手放してしまった人は

幸せになる手段などありません。

更に言えば、幸せなしに誰も長い時間留まる事など出来ません。

バガヴァーンは「その人はその人自身といて幸せなのだ」と言い

この一連の考えを正します。

外側の支えや環境がなくても

その人は幸せなのです。

例えるなら、砂糖は甘いものですが

甘さ継続の為に、他の甘味料を足す必要などありません。

甘さは、飽和状態ですから。

それが砂糖です。

同じように幸せな人(トゥシュタハ)は

幸せの為に、他のものや状況に頼らず

自分自身に、自分自身が気づいている事で幸せです。

その様な人はスティタプラッニャと呼ばれます。

スティタは、良く確立された事を意味し

プラッニャは、わたしとわたし以外の分析とその識別(ヴィヴェーカ)がもたらす

知識を意味するのだと、シャンカラ先生は解説します。

この知識がしっかり確立した人が、スティタプラッニャ

あるいは賢者(ヴィドヴァーン)と呼ばれます。

ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)は、どちらも欲求で

その両方に共通な言葉がカーマ(願望)です。

「私は欲しがる」がカーマ(願望)。

得たいもの、守りたいもの

避けたいもの、取り除きたいもの

ラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)があり得ます。

このラーガ・ドヴェーシャ(好き・嫌い)は

「束縛するもの」と「束縛しないもの」という2つのタイプがあり

シャーストラがラーガ・ドヴェーシャと言う形でカーマについて語る時

それは「束縛するもの」だけを話しています。

「束縛しないもの」は、問題ありません。

クリシュナは、教えたいという欲求がありました。

戦場の真っ只中ということも気にせず、アルジュナに教えました。

マハーバーラタと呼ばれる大きな作品を書き上げたヴャーサも

多くの願望があったに違いありません。

ヴャーサは書き続けました。

沢山の欲求があったはずです。

人は、何かを成し遂げたいという欲求を持ちますが

しばらくして、それを諦めます。

何かを始めますが、やり遂げません。

ヴャーサは違います。

彼は、マハーバーラタを完成させました。

もし欲求がなければ、賢者は教える事が出来ません。

残念な事に近年の幾つかのギーターの解説は

”全ての欲求を手放すこと”の意味が

束縛しない欲求までも手放す、と解釈されます。

シャンカラ先生の解説書に従えば

クリシュナが言う事はとても明確です。

近年の間違った解釈などあり得ません。

次回の勉強会は4月18日(土)11:20~12:50です。

引き続き第55番目の詩を読み進めます。

最後までありがとうございました。

千葉市中央区ヨガ教室「ギーターヨーガ」ヤムナー

関連記事