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ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章55番目の詩

श्रीभगवानुवाच ।

śrībhagavānuvāca |

प्रजहाति यदा कामान् सार्वान् पार्थ मनोगतान् ।

prajahāti yadā kāmān sārvān pārtha manogatān |

आत्मन्येवात्मना तुष्टः स्थितप्रज्ञस्तदोच्यते ॥२.५५॥

ātmanyevātmanā tuṣṭaḥ sthitaprajñastadocyate ||2.55||

シュリー バガヴァーンが言いました。

ああ、アルジュナよ。考えに現れた全ての欲望を手放し、自分自身に幸せであり、自分自身といて幸せである人であるとき、そのとき、その人は知識に根付いた人と言われます。

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この詩、および続く章の詩で語られる賢者[sthitaprajña]の特徴は、すでにアートマーの知識を得た人に関するものです。

賢者[sthitaprajña]が、どのような人物であるかを仄めかす言葉[lakṣaṇa]と同時に、賢者になるための方法[sādhana]の両方が述べられています。

アルジュナは、賢者はどのような人かを知りたがっていましたが、それが、アートマーの知識を得るための考えの準備[sādhana]としても機能するため、その方法も教えられました。

賢者[sthitaprajña]の態度や気質は、単なる知識の結果として現れる特徴であるだけでなく、知識を探求する人々が目指し、実践すべき模範となります。

◎定義もまた道具

賢者を仄めかす言葉[lakṣaṇa]は、同時に、知識を探求する人が、賢者になるための手段・方法[sādhana]としても機能します。

同情、愛、与えることという普遍的な価値観は、ムムクシュにとっては、努力で身につけるべきサーダナです。

これは、自分の考えを浄化し、成長するための道具となります。

なぜなら、探求者の心の中には、まだ「与えるべきか」といった反対の疑問やエゴが存在するからです。

これらのサーダナの追求に成功すると、人は知識の定着を得ます。

知識が定着した後は、かつて努力して身につけたこれらの普遍的価値は、賢者の自然な振る舞いとなります。

賢者は、もはや「同情しよう」「愛そう」とするのではなく、ごく自然に同情深く、愛し、与える人です。

これらの資質は、知識を得るための準備に必要な資質ですが、知識を得た後も捨て去られるものではなく、その人の自然な振る舞いとして世界との関わりの中に現れ続けます。

クリシュナの教えは、賢者の描写を説明する一方で、「そのようになるためにはどうすればよいか」という実践的な教えも同時に含まれます。

つまり、賢者の特徴そのものが、賢者になるためのロードマップになっているのです。

これは、全ての欲望を完全に手放すという形で示されます。

ここでいう「欲望を手放す」は、考えに欲望が起こったとしても、賢者はそれを追跡したり、行動に移したりしないことを意味します。

◎もしあなたが欲望を手放したなら、あなた幸せですか?

一般的に、人は欲望を満たすときだけが幸せだと認識していますから、欲望を満たすこと手放したなら、幸せではないのでは?という疑問があるかもしれません。

クリシュナ神は、「その人は、自分自身で幸せ[ātmanyevātmanā tuṣṭaḥ]」と言います。

賢者は、外側の状況や期待、環境に頼ることなしに幸せです。

これは、砂糖の結晶が、甘味料を必要とせず、それ自体が甘さの飽和状態であることに例えられます。

同じように人は、自分自身に、自分自身が気づいていることによってのみ幸せなのです。

賢者とは、アートマーとアナートマーの識別から生まれた知識がしっかりと確立した人のことです。

何に頼らなくとも幸せという、アートマーに気づいている人は、考えに欲望が起こったとしても、全ての欲望を追跡せずに手放すことができるのです。

束縛のある欲望と束縛のない欲求の違い

欲求[kāma]ラーガとドヴェーシャの2つのタイプに分けられ、どちらも欲求に他なりません。

聖典が語るラーガ・ドヴェーシャは、束縛する性質を持つものを指します。

賢者は、噛みつく願望を手放すことによって、その人自身の中で幸せです。

ここで「全ての欲求を手放す」ことと「自分自身で幸せである」ことが、まるで相互依存の関係[anyonyāśraya]かのよう、という疑問が起こるかもしれません。

しかし、シャンカラはそうではないと言います。

◎束縛のない欲求は問題ではない

シャンカラはまず、全ての欲望を手放した人が、外部に頼らずにどうやって幸せでいられるのかという、問題を定義しました。

クリシュナ神は、賢者は自分自身への気づきによって幸せであるため、外部の欲求を満たす必要がないというものでした。

ここでの欲求は、それを得て幸せという意味での、人を束縛する欲求のことで、束縛のない欲求は含まれません。

もし「全ての欲求を手放した人だけが賢者」と定義するならば、教えたいという強い欲求をもってアルジュナに教えを説いたクリシュナや、マハーバーラタという大作を書き上げたヴャーサ、そして解説を書いたシャンカラも、馬車を操縦したり音楽を演奏したりといった様々な行為をしたクリシュナと同様に、欲求を持っていたことになり、賢者とは呼べなくなってしまいます。

近年のギーター解説のいくつかが、「全ての欲求を手放す」という言葉の真の意味を誤って翻訳・解釈した結果、このような問題と混乱が生じています。

あなたが全体であるとき、行わなければならない何かがありますか?

第3章でクリシュナが述べたように、賢者は自分自身をカルターと見なさないため、行為やそれに伴う欲求に束縛されず、成さねばならない義務もありません。

クリシュナ自身も、全てが自分自身であるため成し遂げねばならないことはありませんが、活動的であり続けました。

その活動は束縛のないもので、それを駆り立てる欲求もまた束縛のないものです。

ギーターで議論されるのは、人を縛る束縛のあるカーマのみです。

考えに現れた全ての欲望を手放し、自分自身に幸せであり、自分自身といて幸せである人である時、その人は知識に根付いた人です。

ここで使われる「トゥシュタ」という言葉は、安全(安心)も意味します。

自分自身が完全に安全、安心である人は、同時に幸せでもあります。

「自分自身で安全である」ので、外部の対象に依存する、束縛する欲求は必要ありません。

自分自身でいて幸せな人とは、自分自身を完全に受け入れることができている賢者です。

アートマーは、プールナであり、不完全という感覚から自由であり、改善の余地がありません。

賢者は、このアートマーの完全であるという事実に目覚めているため、外部に依存せず幸せなのです。

賢くあるために、あなたは智慧を持たなければなりません

賢者の定義が「ゆっくり話す」といった行動基づくなら、誰でもその真似をすることで賢者になれてしまうため、人の話し方や歩き方は、賢者であることの証明にはなりません。

友情が友となる唯一の方法であるのと同様に、智慧だけが、人を賢くする唯一の方法であり、他の方法はありません。

また、愛についても同様で、愛を育てる唯一の方法はただ愛することです。

愛は人の満足の現れです 

愛は、小麦粉がパンやマフィンといった様々な形をとるように、アーナンダが様々な状況に応じて現れた、シンプルな感情です。

愛を分析すれば、その本質はアーナンダに他なりません。

このアーナンダの現れである愛は、哀れみ、思いやり、与えることといった前向きな性質に変化します。

一方で、その同じ愛が何らかの妨げを受けたとき、貪欲さ、怒り、失望といった否定的な感情を導くカーマとなります。

ですから、これら全ては、アーナンダという一つの表現に過ぎません。

愛をバガヴァーンと呼ぶのは、アーナンダの表現された形が、作者であるイーシュワラの愛そのものだからです。

バガヴァーンの本質は、サト・チト・アーナンダであり、このうちのアーナンダが現れた形が愛[prema]です。

愛の前向きな変化が哀れみや同情で、後ろ向きな変化が怒りや嫉妬です。

賢者とは、アーナンダを自分自身の中に見出した人、つまり「私は全体である」と知り、全ての欲求を満たしているものが自分自身だと見抜いた人です。

自分自身の発見と、全ての欲求を満たすことが、別々のものではなく、同じことであるのを、これから見て行くことになります。