
दुःखेष्वनुद्विग्नमनाः सुखेषु विगतस्पृहः ।
duḥkheṣu anudvignamanāḥ sukheṣu vigataspṛhaḥ |
वीतरागभयक्रोधः स्थितधीर्मुनिरुच्यते ॥२.५६॥
vītarāgabhayakrodhaḥ sthitadhīrmunirucyate ||2.56||
不幸で苦しい出来事に影響されない人、物質的、精神的な快楽を求めることのない人は、渇望や、恐れや、怒りから自由であり、知識のやどった賢者であると言われます。
-
アルジュナの問いに対し、クリシュナは「真の幸せは外側の欲求を満たすことではなく、知識によって自分自身の中に発見されるものである」と言いました。
この真理に目覚めた賢者[sthita-prajña]は、限られた自己イメージから自由であり、思考の中に欲求が湧き起こっても、自身の幸せが揺らぐことはありません。
アルジュナが賢者の振る舞いや反応について尋ねた真意は、他者をジャッジする基準を知るためではなく、自らが賢者となるために必要な取り組む価値観、手段[サーダナ]を学ぶことにありました。
賢者にとっての自然なあり方は、ムムクシュにとって取り組むべき実践そのものであり、クリシュナはその意図を汲んで、賢者の本質的な特徴を明かしたのです。
◎3つの側面を持つ悲しみの原因
苦しみ[duḥkha]には、自身の身体や心に起因する[ādhyātmika]、他者や環境に起因する[ādhibhautika]、そして自然災害など不可抗力な力に起因する[ādhidaivika]という3つの源があります。
悲しみそのものは一つですが、その源が多岐にわたるため、ここではと複数形[duḥkheṣu]で表現されます。
賢者であっても、肉体を持つ以上は痛みや苦痛の「源」に遭遇し、それを認識します。
しかし、一般の人々が苦痛によって心を激しく動揺させ[udvigna]、周囲にまでその影響を広げてしまうのに対し、賢者はそれらに影響されたり揺さぶられたりすることがありません。
賢者は自己の本質に留まっているため、苦痛を客観的に認識しつつも、平穏を保ち続けます。
◎スカに対する賢者の反応
苦しみ[duḥkha]に動揺しないのと同様に、賢者は喜び[sukha]に対しても「もっと欲しい(アンコール)」という切望[spṛha]を持ちません。
世俗的な喜びは、燃料を投下するほど燃え広がる火のように際限がありませんが、賢者の喜びは、自分自身に満足しています。
賢者は喜びや悲しみを認識しないわけではなく、笑いもしますが、それらに「運び去られる」ことがありません。
その結果、執着[rāga]、恐れ[bhaya]、怒り[krodha]から自由です。
執着や嫌悪[rāga-dveṣa]からの自由も意味します。
賢者にとって、これら二つの対立感情は、もはや自分を縛り付けたり傷つけたりする「歯」を持たないのです。]
◎恐れがない
恐れ[bhaya]の根本的な原因は、自分とそれ以外を切り離して考える「二元性」にあります。
自分が限られた存在であり、他者や世界、あるいは神が自分とは別物である[jīva-īśvara-bheda]と認識するとき、対象は常に自分を脅かす可能性を持つ「他者」となり、そこに不安と恐れが生じます。
この二元性は執着や嫌悪[rāga-dveṣa]を生み、さらに「理想の自分」と「実際の自分」という自己分裂さえも引き起こします。
しかし、真実において存在するものはたった一つの実体[vastu]のみであり、自分と世界は、もともと分かれていないことを理解すれば、恐れるべき対象そのものが消滅します。
ですから、二元性を超えた人は、執着からも恐れからも完全に自由になることができるのです。
◎怒りも無くなります
賢者が怒りから自由である理由は、その根源である欲求[kāma]から自由だからです。
怒りは、独立した感情ではなく、満たされない欲求が形を変えたものにすぎません。
自分の望みが何らかの障害によって妨げられたとき、その「妨げ」がターゲットとなり、温厚であった欲求が「怒り」へと変容します。
この変容は極端な場合、愛の対象を攻撃対象へと変えてしまうほど強力です。
しかし、執着を伴う欲求そのものがなければ、それを妨げられることもなく、怒りが生じる余地もありません。
したがって、カーマを克服した賢者は、必然的に怒りからも自由です。
◎二元性と恐れ
恐れ[bhaya]の本質は、自分とそれ以外の間に「関係」や「分裂」を認める二元性にあります。
たとえ「私は神の一部である」という微細な表現も、自分と神を分ける境界線がある限り、恐れを完全に拭い去ることはできません。
この分裂は探求不足[a-vicāra]から生じるものであり、ウパニシャッドは「わずかでも分裂がある限り、恐れは避けられない」と指摘します。
熟考の末に真実を見抜いた人[muni]の知識[dhī]は、揺らぐことなく定着[sthita]しています。
ドヴァイタが、「信仰」の域を出ないのに対し、アドヴァイタは、信じるべき対象ではなく、自分自身という揺るぎない事実としての知識です。
このように知識が完全に宿り、あらゆる観念から自由になった人こそが、真の意味での賢者[sthita-prajña]であり、真のサンニャーシーです。
