2020/05/16
दुःखेष्वनुद्विग्नमनाः सुखेषु विगतस्पृहः ।
duḥkheṣu anudvignamanāḥ sukheṣu vigataspṛhaḥ |
वीतरागभयक्रोधः स्थितधीर्मुनिरुच्यते ॥२.५६॥
vītarāgabhayakrodhaḥ sthitadhīrmunirucyate ||2.56||
不幸で苦しい出来事に影響されず
物質的、精神的な快楽を求めず
渇望、恐れ、怒りから自由である賢者が
知識に根付く人と言われます[56]
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スカという言葉は、幸せや、嬉しい状況です。
人は、感覚的な喜び、好ましい出来事などを切望し
その状況が訪れると嬉しくて、ボールの様に跳ね回ったりします。
賢者も、面白い出来事には笑いますが
切望がないので「アンコール、もう1回!」はありません。
痛みも、喜びも認識しますが、どちらにも運び去られません。
この特徴が、モークシャを望む人の資質です。
シャンカラ先生は、スカという願望を「火」に例えます。
燃料があると、火は大きな炎となる様に
願望も、材を与えることでどんどん大きくなります。
賢者のスカは、火の様ではありません。
自身の満足の中に解消します。
スカを切望する事がないので
手に負えなくなることがありません。
スカ、ドゥッカに運びさられない人は
好みや、恐れや、怒りからも自由です。
自分自身で満足な人に、ラーガ・ドヴェーシャは噛みつきません。
それはただ、楽しまれる事が出来るだけです。
賢者のラーガ・ドヴェーシャは、歯が無いので、束縛はありません。
ラーガ・ドヴェーシャがなくなると、恐れもなくなります。
欲求がある時にだけ、恐れがあります。
ラーガ・ドヴェーシャがある時にだけ欲求があります。
欲求は二元性を示します。
「私はこれっぽっち。ありとあらゆるものが私以外のもので、私はそれを得なければならない」
という観念ゆえです。
個人と、イーシュワラは別のものですから、当然恐れがあります。
個人と、イーシュワラの違いは、個人と世界の二元性を示し
個人と世界の二元性は、個人と個人の二元性を示します。
この二元性の世界の中で、私は安全ではない人です。
ですから、いつも恐れがあります。
「他」がいつもある、自分以外を認識する事が恐れの原因です。
自身の中にも分裂を作り出すなら、私自身にすら恐れます。
「現実の私」はいつも「理想の私」におびえます。
1つのものだけがあるなら、恐れはありません。
恐れを起こすには、2つ目のものが必要です。
ですから二元性を持たない人は
ラーガ・ドヴェーシャから自由であるだけでなく
恐れからも自由です。