2020/06/06
दुःखेष्वनुद्विग्नमनाः सुखेषु विगतस्पृहः ।
duḥkheṣu anudvignamanāḥ sukheṣu vigataspṛhaḥ |
वीतरागभयक्रोधः स्थितधीर्मुनिरुच्यते ॥२.५६॥
vītarāgabhayakrodhaḥ sthitadhīrmunirucyate ||2.56||
不幸で苦しい出来事に影響されず
物質的、精神的な快楽を求めず
渇望、恐れ、怒りから自由である賢者が
知識に根付く人と言われます[56]
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死の恐れ、見下されたり、軽蔑されたりする恐れ
ちっぽけである事の恐れ、成し遂げられない事の恐れなど
恐れは、求める人と(主体)、求められるもの(客体)の関係
分かれている[ドヴァイタ]がある時にだけ存在し
ドヴァイタがある時、恐れがあります。
恐れから自由になる唯一の方法は、分かれているが無いこと[ア・ドヴァイタ]。
恐れは、知識を通してのみ無くなり、これが唯一の方法です。
「イーシュワラが全て、そして私はその一部」
こんな小さな分裂でさえ、恐れを起します。
この考え方から、全てが違うものになります。
この分裂は、ちゃんと考えていない事から生まれます。
ムニとは考える人、探求する人で
ムニの知識はしっかりと定着します[スティタディー]。
ドヴァイタは、知識ではなく、信じるにすぎないこと。
反論があるにしても、ア・ドヴァイタ(分かれていない)は、あなたが知っているものです。
それを他者に上手く伝えられず(教え方の方法論を上手に使えない)かも知れませんが
あなた自身なのですから、あなたが知っています。
それは、信じなければならない様な何かではなく、全ての観念からの自由。
ア・ドヴァイタは、そこにある全てです。
知識が定着した人(スティタプラッニャ)は賢者で
サンニャーシーも、知識がしっかりと宿った人であることを示す言葉です。
この言葉がシャンカラ先生の解説書で取り上げられています。
サンニャーシーになること無しに、知識がしっかりと宿った人にはならない。
ここで言うサンニャーシーは、この知識に価値を見た人、既に知識が完成した人
どちらの意味ともとれます。
シャンカラ先生が述べるサンニャーサは、いつも知識で、それ以外のものではありません。
行いの結果が、モークシャではないという事です。