2020/06/20
यः सर्वत्रानभिस्नेहस्तत्तत्प्राप्य शुभाशुभम् ।
yaḥ sarvatrānabhisnehastattatprāpya śubhāśubham |
नाभिनन्दति न द्वेष्टि तस्य प्रज्ञा प्रतिष्ठिता ॥२.५७॥
nābhinandati na dveṣṭi tasya prajñā pratiṣṭhitā ||2.57||
あらゆる状況に執着せず
快・不快を得ても愛慕も嫌悪もない
その様な人の知識は、十分に成し遂げられています[57]
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油や膠(にかわ)の様な粘り気のあるもの
粘着するものがスネーハと呼ばれます。
例えば、自分の子供への愛情はスネーハだと考えられます。
遠くにいようが、子供は私の頭の中で常に私と一緒にいます。
分かち合いがあり、子供の喜びや悲しみが
私の喜びや悲しみになり、影響されます。
愛情は問題ありませんが、執着[アビスネーハ]はやっかいです。
子供に愛情がある時、話したり、話を聞いたり、いい子いい子する。
そういったスネーハは、子供の成長の為にとても大切です。
しかし、愛情は執着になり得ます。
執着は、ある種の拘束があり、所有され、コントロールされる対象になります。
私達のマインドは、心[hṛdaya]がある所にあります。
執着がある場所にマインドは向かいます。
何百もの場所に心[hṛdaya]があり
マインドは心(hṛdaya)にペースを合そうとし、何百もの場所に行きます。
痛みや腫れを伴う傷を負う人は、痛みがあるので
その傷を優しい気持ちで癒そうとします。
多くの癒しの行為により、傷は、愛と優しい気持ち全部を受け
あらゆる治癒力のシステムが働き出します。
心[hṛdaya]がそこにあるので、マインドがそこに行きます。
その時、マインドはサト・チト・アーナンダの意味に留まることを許しません。
執着は、天国からはじまる、多くの対象物に向かいます。
完璧な天国描写にも、賢者は興味がありません。
賢者の心[hṛdaya]は、その人自身で、決して失われず、どこにも捕らわれないのです。
愛や、友情や、優しい気持ち、労わりがありますが、駆け引きはありません。
接頭語のアヴィが、スネーハという言葉の前に加えられます。
賢者は、愛情を持ちますが、過剰な愛、すなわち執着ではない事が
ウパニシャドやギーターを通して明かされます。
クリシュナも、明らかにアルジュナに愛情がありました。
アルジュナに対し、愛情はあっても
「こんなに教えてやってるから、理解しろ!」などという執着はありません。
執着がムムクシュを助けたりしません。
この詩はまた、喜ばしい状況に舞い上がって踊ったり
好ましくない状況を憎んだりしない事を私達に語っています。
シュバという言葉は、喜ばしい事、好ましい事など
アシュバは、死や病気などの喜ばしくない事を意味します。
賢者は、快・不快を得ても愛慕も嫌悪もせず
それをあるがままに受け入れます。
あらゆる状況も、同じ[サマハ]です。
これは、ある種の理解から生まれる態度ですが
賢者にとっては、それは自然で自動的な表現なのです。
賢者の知識は、リアル、アンリアルの識別から生まれていますから。