2020/07/04
यदा संहरते चायं कूर्मोऽङ्गानीव सर्वशः ।
yadā saṃharate cāyaṃ kūrmo'ṅgānīva sarvaśaḥ |
इन्द्रियाणीन्द्रियार्थेभ्यस्तस्य प्रज्ञा प्रतिष्ठिता ॥२.५८॥
indriyāṇīndriyārthebhyastasya prajñā pratiṣṭhitā ||2.58||
亀が手足を引っ込める様に
対象物から感覚器官を完全に引き下げるなら
その人の知識はしっかりと留まっています[58]
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知識に根付く人[スティタップラッニャ]は、どの様に世界と関わるのか?
というアルジュナの質問への答えが述べられています。
チャ[च]という言葉が、この詩と前の詩を繋ぎます。
「私はOKだけど、私の感覚器官が私を乗っ取ってしまう」など
感覚器官は、私達によって悪者として述べられます。
シャーストラも詩の意味だけをそのまま受け取るなら
まるで感覚器官が悪者かの様な言い回しです。
感覚器官は知識の道具[プラマーナ]
何が起こっているかをレポートするのが仕事です。
音があるなら、音がある事をただ私に告げます。
その情報で、すぐに私の好みの空想がはじまり
空想に捕まってしまう自分自身に気づき、完全に我を失います。
感覚器官のレポートが、私を空想に導くので
感覚器官が問題だと思われますが、それらには問題はありません。
その後ろにある考えに問題があるようにも思われますが
考えにも問題はありません。
考えや肉体を私として、世界との関われるように働きます。
知識に根付く人[スティタップラッニャ]は
ダルマに沿って、イーシュワラを認識し進みます。
好みの空想によって強いられません。
望む事に従って進むという事は、決心です。
ダルマは相対的ではありますが、それに従い進みます。
好みの空想に巻き込まれない人、意のままに感覚器官を引き下げる人は
感覚器官の手の内には無く、
感覚的な追及は、その人の許可とサイン無しにはじまりません。
そうして、自分自身の知識にしっかりと留まる事[ニャーナ・ニシュター]を得ます。
ニャーナ・ニシュターには、必ず2つのステップが必要です。
・ウパーサナ(イーシュワラに祈る)
・ニディッデャーサナ(考えの質に染まらず、わたしに留まる熟考)
クリシュナは、感覚器官を引き下げる事を亀[クールマ]の例えを使いました。
亀は、手足を意のままに出したり引っ込めたり出来ます。
甲羅の固さは、中の生きものの匂いも分からない様にします。
身を守る方法として、バガヴァーンからその能力が与えられました。
人もまた、その人が引き下がれる強い甲羅を持っています。
好みの空想に連れ去られるなら、感覚器官はどうする事も出来ません。
しかし、私達は、ありとあらゆる物を眺める事が出来ます。
自然の秋の景色を見るのと同じ様に、単にそれを眺める事が出来ます。
同じ様に、好みの空想があり、空想としてやってきて、空想として去ります。
何かを欲する時にだけ問題があります。
クリシュナ神は、意のままに感覚器官をその対象物から
自分自身の中に引き下げる能力を亀の例えを使い述べています。
その能力は、知識[ニャーナ]をしっかり定着[ニシュター]させ得るでしょう。
この様に、自分自身を準備している人にとって
知識はそれ程遠いものではないでしょう。
とてもシンプルな事です。
また、この詩の中で言われている事は
マインドや感覚器官の機能を理解する為で
誰かをジャッジする為ではありません。