
विषया विनिवर्तन्ते निर्-आहारस्य देहिनः।
रस-वर्जं रसोऽप्य् अस्य परं दृष्ट्वा निवर्तते॥२.५९
viṣayā vinivartante nir-āhārasya dehinaḥ।
rasa-varjaṃ raso'py asya paraṃ dṛṣṭvā nivartate॥2.59
感覚器官に餌を与えない人、体を持って装っている人にとって、感覚器官は、欲求を置き去りにして、その人自身に戻ってきます。ブランマンを知って、(自分自身が知られて)欲求ですら、去ってしまうのです。
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ここで重要な疑問が提示されます。
「感覚器官を対象から引き下げるテクニックさえあれば、知識は定着するのでしょうか。」
答えは「いいえ」です。
単に感覚器官を物理的に遮断したり、欲望を力ずくで押さえつけたりするだけなら、愚か者や修行段階のヨーギーにも可能です。
しかし、内側に「対象への価値(欲求)」が残ったまま感覚を無理に引き下げると、それは「抑圧」となり、遅かれ早かれ爆発してしまいます。
対象に価値を置いている限り、人は感覚器官の真のマスターにはなれず、何かの拍子に再び感覚の虜(犠牲者)になってしまいます。
ウィンク一つで自分を見失ってしまうような脆い状態は、真の知識による自由とは呼べないのです。
◎余韻を残して引きずる好みの味
感覚器官を物理的に遠ざけることができても、心の中に残る「味わい・主観的な価値[rasa]」を消し去ることは容易ではありません。
ここでは、客観的な分析による「知的な価値」と、心が惹きつけられてしまう「感情的な価値」の違いが強調されています。
たとえ知的に「感覚的喜びは永遠の幸せをもたらさない」と理解していても、感情のレベルでは依然として対象に価値を感じ、執着し続けることがあります。
例えばお金のように、生活に必要な「道具としての価値(知的価値)」を認めることと、それを「安心の拠り所にしてしまう価値(感情的価値)」は別物です。
感情は人生の重要な表現の一部であり、圧倒的な力を持つため、単に無視するのではなく、その価値を正しく理解し、適切に取り組む必要があります。
◎お金の価値
お金には生活を支える「客観的な価値(知的価値)」がありますが、それ以上に「成功の尺度」として自分を縛る「主観的な価値(感情的価値)」が私たちの内側に根深く存在しています。
感覚器官を物理的に断つこと[nir-āhāra]や、厳しい修行[tapas]によって対象を遠ざけることは、アヴィヴェーキーでも可能ですが、それは単なる抑圧にすぎず、対象への未練・味わい[rasa]までは消し去れません。
ヴィヴェーキーは、知的なレベルでは「対象が本当の安全を与えない」と理解していますが、それでも感情的な「ラサ」が残るという葛藤に直面します。
一方、アヴィヴェーキーは、知的にも感情的にも対象に依存しています。
真の課題は、火山のようにいつか爆発する抑圧ではなく、こびりついた「主観的な価値[rasa]」をいかに扱うかにあります。
◎知識だけがラサを取り除きます
ラサは、単に感覚器官を遮断するだけでは内側に残り続け、抑圧を生みます。
しかし、クリシュナは「最高のものを見て[paraṃ dṛṣṭvā]、ラサもまた消え去る」と言います。
ここで「見る」とは、視覚ではなく、「私はあのブランマンそのものである[tat param-brahma aham eva]」という真実を知ることを意味します。
自分自身が満たされた幸せそのものであるという認識[samyag-darśana]が得られたとき、外側の対象に対する感情的な価値は、芽を吹くことのない「種無しの状態[nirbījam]」です。
人々は生活のすべてが整ってからこの知識を求めようとしますが、実際にはこの知識と自分自身を統括すること[yoga]なしに、人生が整うことはありません。
このはっきりとしたヴィジョンこそが、人を空想のハイジャックから永遠に解放します。
◎感覚の対象物を取り除くこともまた、役に立ちません
「ヴィシャヤ」を感覚器官ではなく「感覚の対象(外側の世界)」と解釈した場合、山奥に一人で隠遁し、ネットもテレビもない生活[nir-āhāra]を送ることで、物理的に世界を断つことは可能です。
しかし、たとえ外界が去ったとしても、内側にはラサが残り続けます。
都会の成功やお金への未練、他人の評価が気になるといったラサは、山奥の隠居生活の中でもあなたを追いかけ、後悔の念を引き起こさせます。
例えば、アルコール依存症の人が、単に対象(お酒)を遠ざけるだけでは不十分なのと同じです。
お酒よりも「より力のあるもの(大事な価値)」、すなわち祈りや、より深く美しい価値を見つけたときに初めて、古い対象へのラサは、自然に消滅します。
単なる我慢ではなく、より価値あるものを知ること[paraṃ dṛṣṭvā]こそが、ラサを根本から取り除く唯一の方法です。
◎感覚的な価値を認めることの大切さ
お酒(依存の対象)を飲み始めた当初、人は自らが主導権を握っていると信じています。
しかし、次第にその関係は逆転し、人間がボトルを手に取るのではなく、ボトルが人間をコントロールし始めます。
自由を失った状態では、本人が「いつでもやめられる」と言っても、それは本人の言葉ではなく、対象(ボトル)に言わされているに過ぎません。
この支配から抜け出す道は、対象に対して自分が「無力である」と認めることから始まります。
自分一人の力では圧倒されてしまう事実を認め、決心し、外部の助けを借りることで、物理的な対象(ボトル)を遠ざけることができます。
しかし、それでもなおラサは残ります。
この「ラサ」が最終的にその威力を失うのは、自分自身がすでに安全であり、満たされた存在であることを知ったときだけです。
