
तानि सर्वाणि संयम्य युक्त आसीत मत्-परः।
वशे हि यस्येन्द्रियाणि तस्य प्रज्ञा प्रतिष्ठिता॥२.६१
tāni sarvāṇi saṃyamya yukta āsīta mat-paraḥ।
vaśe hi yasyendriyāṇi tasya prajñā pratiṣṭhitā॥2.61
識別の能力を授かっていて、自分の支配のもとに全ての感覚器官を保つ人は、私に対する熟考の中で座りますように。全ての感覚器官を支配下に置く人にとっては、この知識は十分成し遂げられています。
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クリシュナはここで、単に感覚を遮断して座るのではなく、イーシュワラにコミットして座ることを述べます。
ここでいうイーシュワラとは、遠く離れた存在ではなく、自分自身の最も内側の自己[pratyag-ātmā]であり、同時にすべての存在の中に息づくサッテャそのものです。
この熟考(瞑想)が意味を持つためには、「何がなんたるか」を見極める力が必要です。
ヴィヴェーカのないまま座っても、何をすべきか理解できず、迷いの中に留まるだけだからです。
自らを全存在の源であるイーシュワラを認識するなら、知識は揺るぎないものになります。
◎熟考の必要
ヴィヴェーカは、聖典の教えを聴き[śravaṇa]、正しく探求することで得られます。
しかし、知的な理解があってもラサが残っている状態は、まだ障害を伴う知識[sa-pratibandha-jñānam]です。
このラサこそが「なぜ自分はこれほどまでに熟考しなければならないのか?」という疑念や葛藤を生み出します。
スティタ・プラッグニャに至るには、多角的な視点から自分自身を熟考し続け、ラサが自然に去るための時間をかける必要があります。
「私は満ち足りている[pūrṇa]」「私は単に目撃者[sākṣī]である」「私はすべてである[aham idam sarvam]」という認識に深く浸るとき、外側の対象への未練は居場所を失い、消え去ります。
シャンカラは続く二つの詩で、このラサに飲み込まれた人がどのように転落していくのか、すべての人に共通する欲望の心理を解き明かします。
