
क्रोधात् भवति सम्मोहः सम्मोहात् स्मृतिविभ्रमः ।
krodhāt bhavati sammohaḥ sammohāt smṛti-vibhramaḥ |
स्मृतिभंशाद् बुद्धिनाशो बुद्धिनाशात् प्रणश्यति ॥२.६३॥
smṛti-bhraṃśād buddhi-nāśaḥ buddhināśāt praṇaśyati ||2.63||
怒りから妄想が起こり、妄想から記憶は彷徨い
記憶が失われ、考えが無能になり、考えが無能なら、その人は破壊されます[2-63]
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◎怒りの本質
欲求が障害にぶつかり、歪められて放出されたものが「怒り」です。
これはブドウがワインにも酢にもなるように、欲求は同じでも、条件によって性質が変わってしまった状態です。
怒りを無理にコントロールすることは、内なる火山を作るだけであり、解決にはなりません。
真の解決策は、現実的な期待を持ち、ラーガ・ドヴェーシャの棘を抜くことにあります。
ひとたび怒りが生じると、ヴィヴェーカは瞬時に失われ、客観性を欠いた妄想[sammoha]に陥ります。
この状態では、過去の経験や教えから得た知恵である記憶[smṛti]が機能しなくなります。
これが、記憶の喪失[smṛti-bhrama]です。
知恵を思い出せないために、今すべきこと・すべきでないことを判断するブッディが破壊され、人は正しい道を見失ってしまうのです。
◎知恵がないと衝動が圧倒する
ブッディは、学んだ知恵が伴って初めて機能します。
知恵を失ったブッディは、プログラムのない機械のように無力になり、人は自らを衝動に明け渡してしまいます。
この状態が破壊[praṇaśyati]で、人は人間としての尊厳を失い、動物のように叫び、他者を傷つけ、自らをも破滅させる行動をとります。
ここで注目すべきは言葉の使い分けです。
執着から欲求、欲求から怒りまでは、まだ「生まれる」という段階であり、抑制の余地があります。
しかし、怒りが生じた後は、妄想や知性の崩壊が、連鎖的に起こるという制御不能なステージへと移行します。
怒り以前には防げたはずが、一度怒りの火がつくと、あとは破滅まで転がり落ちるしかありません。
ですから、クリシュナは「対象物(外側の世界)」への瞑想(思い続けること)をやめ、自分自身の本質[pratyag-ātmā]へ瞑想しなさいと言いました。
