2020/10/17
रागद्वेषवियुक्तैस्तु विषयानिन्द्रियैश्चरन् ।
raga-dveṣa-viyuktais tu viṣayān indriyaiś caran |
आत्मवश्यैर्विधेयात्मा प्रसादमधिगच्छति ॥२.६४॥
ātmavaśyair vidheyātmā prasādam adhigacchati ||2.64||
一方、感覚器官を自分の手中に収め、物質世界を動く人
ラーガ・ドヴェーシャから解放され
考えが整う人は、穏やかさを得るでしょう[2-64]
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全人類の求めるゴールは、気づいていようがいまいが
自由[モークシャ]です。
自由を願うこと[モークシャ・イッチャー]は
全ての人間が持っています。
しかし、その全ての人間の中でも
安全[アルタ]、喜び[カーマ]を追求、体験し
他者の体験をも観察する事でそれらについて学び
別の自分になり続けることに疲れ
この延長線上で走り続けなければ
幸せでいられないのか?と考え
根本的な問題からの解決を探し始める
その、識別[ヴィヴェーカ]を育て
別の人になり続けることからの解放が
1番の望みになった人を
モークシャを求める探求者[ムムクシュ]と言います。
興味がある事の中の1つが
自由[モークシャ]なのではありません。
自由を得たいとは、この特殊な欲求に付随する
多くの識別[ヴィヴェーカ]があります。
同時に、ラーガ・ドヴェーシャもあります。
ラーガ・ドヴェーシャは、識別があっても消えません。
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アルジュナは、ダルマの人生を過ごし
クリシュナから教えを乞うて
何が何たるかを理解したはずでしたが
戦争中、息子(アビマンニュ)の死で
ジャヤッダラタへの復讐の誓いをたてました。
アルジュナの父としての悲しみを見る様に
ラーガ・ドヴェーシャは、一夜にして無くなるものではありません。
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ですから人は、何が何たるかの知識を得る為に
カルマ・ヨーガの人生を
一定期間過ごすのが望ましです。
ムムクシュは、カルマ・ヨーガの人生を送り
感覚器官は、ラーガ・ドヴェーシャから自由です。
ムムクシュのあらゆる願望は
ラーガ・ドヴェーシャが基盤ではなく
毎日を調和と共に生き
自分と周りに、より多くの幸せをもたらし
精神的な自己成長を育てるダルマが基盤です。
ムムクシュは、この世界から退散せず
感覚の対象を体験しながら世界と関わります。
この詩の、チャランという言葉は「動く」という意味で
ここでは「到着する」「行く」を意味しますが
例えば、「ブランマンに到達する」という意味は
何処かに辿り着くという意味ではなく
ブランマンを理解する、知る、という意味です。
同じ様に、この詩でチャランは
全ての感覚器官で「体験すること」を意味します。
感覚器官が、手の内にあり
ラーガ・ドヴェーシャの手の内にはないと
この詩は述べています。
[ātmavaśyaiḥ raga-dveṣa-viyuktaiḥ indriyaiḥ viṣayān caran]
ラーガ・ドヴェーシャに煽られず
感覚的な願望を満たす決定要因は
ダルマとアダルマです。
ムムクシュは、意志で考えが働く
「よく整った人」です。
そして、カルマ・ヨーギーなのです。
カルマ・ヨーギーは、ムムクシュです。
自由への欲求[ムムクシャー]があるので
カルマ・ヨーガがあります。
その人は、感覚器官と考えがまとまっているので
プラサーダを得ます。
プラサーダは、「イーシュワラからの御下がり」
と既に見てきましたが、別の意味もあります。
”ご機嫌、満足、穏やかさ”です。
それは、感覚器官が自分の手中にある人の考えに
ラーガ・ドヴェーシャの支配から自由な時に起こります。
満足がその人と共にあります。
考えは安定し、かき乱されたり、自己不満がありません。
取り組まれるべきラーガ・ドヴェーシャが
ギーター全体の心理学です。