千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章66番目の詩

2020/11/07

नास्ति बुद्धिरयुक्तस्य न चायुक्तस्य भावना ।

nāsti buddhirayuktasya na cāyuktasya bhāvanā |

न चाभावयतः शान्तिरशान्तस्य कुतः सुखम् ॥२.६६॥

na cābhāvayataḥ śāntiraśāntasya kutaḥ sukham ||2.66||

穏やかでない人には、知識がありません

穏やかでない人にとっては、熟考はありません

熟考のない人にとっては、平和はありません

平和のない人にとって、どの様に幸せがあり得るでしょう[2-66]

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バーヴァナという言葉の意味は

通常、重ね合わせ(superimpose)という意味です。

ex1.ロープを蛇に見る様な、間違い

ex2.祭壇の彫像をイーシュワラとして見ること

この2つはバーヴァナです。

しかし、この詩では”熟考”という意味で扱います。

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※シャンカラバーシャにおける定義

भावना 1/1 आत्म-ज्ञान-अभिनिवेशः 1/1

自分自身の知識についての帰依

-

穏やかな考え[プラサンナター]を

この詩でクリシュナが讃えます。

快活な、穏やかな考えを持たない人[アユクタ]は

ラーガ・ドヴェーシャを注意深く処理しなかった人です。

はっきりと理解されるべき事は

自己ジャッジする事では無いということ

これが正しく理解されなければ

ギーターや、ヴェーダーンタに耳を傾け

自己ジャッジの問題が起こり得ます。

唯一の目的は、自分自身の理解です。

ギーターが語る事を聞き

すべき事があるなら、ただそれをします。

それ以上の事ではありません。

ラーガ・ドヴェーシャは注意深く扱わねばならない

ただそれだけです。

この詩で、ブッディという言葉は

自分自身の知識を意味します。

ブッディで、自分自身[アートマー]を理解します。

ラーガ・ドヴェーシャの手の内にある人に

相応しい知識は起こりません。

ラーガ・ドヴェーシャは、あなたの内側に座り

注意を向ける事を強く要求します。

ギーターを読み始めたら

眠ってしまうか、他の事がしたくなり

ほんの短い時間ですら

自分自身と座る事が出来ない事を知ります。

自分自身と座る事が出来ない人

熟考出来ない人

静かに自分自身の知識を追求する事が出来ない人には

平静さや、穏やかさはありませんが

自分自身に留まる事が出来る人は

穏やかさがあり、自分自身への愛があります。

本当の自分自身を理解するなら

自分自身を愛し始めます。

自分自身は無条件で完全ですから

その愛も無条件で完璧なものです。

-

テクニックとして”自己愛を育てる”などの

書籍やワークショップがありますが

ラーガ・ドヴェーシャと共に

この限られた自分自身という認識で

どの様に愛を育てることが出来ると言うのでしょう?

あなた自身に愛を感じることなしに

あなたはあなたと座ることは出来ません。

あなた自身と座る事が出来ない時

穏やかさはありません。

これらの事が、全て平和の無いことを意味し

満足の無いこと[ア・シャーンティ]を意味しています。

「平和や満足[シャーンティ]は要らない

幸せ[スカ]だけが欲しい!」

とある人は言うかもしれません。

しかし、穏やかな考えがあるからこそ

どんな幸福[スカ]も可能です。

自分自身と座る事が出来ないなら

当然動揺し、イライラします。

動揺し、イライラするならスカはないのです。

シャーンティが無い人[ア・シャーンタ]が

スカを見つける方法はありません。

スカは、ただただあなた自身と共にありますから。

幸せは、穏やかさを意味する別の言葉です。

穏やかな人だけが、幸せを発見する事が出来ます。

穏やかな人にとっては

世界のありとあらゆるものが、楽しいのです。

穏やかさを持つなら、全世界は絶え間ないジョークです。

何も必要としません。

お金もかからないので、全てがあります。

ただ目を開いてあなたはジョークを見ます!

人は、厄介なラーガ・ドヴェーシャを扱い

それをどうにかする為に

しなければならない事を、しなければなりません。

これがカルマ・ヨーガを意味し

教えを聞きこむこと[シュラヴァナ]

更なる分析[マナナ]を意味します。

どの様に知識が起こるのか

知識がしっかり定着する[スティラ]為に何が必要か

なぜ、知識がしっかりと定着すること[スティラ]が出来ないのか

これらがこの詩で議論されました。