
नास्ति बुद्धिरयुक्तस्य न चायुक्तस्य भावना ।
nāsti buddhirayuktasya na cāyuktasya bhāvanā |
न चाभावयतः शान्तिरशान्तस्य कुतः सुखम् ॥२.६६॥
na cābhāvayataḥ śāntiraśāntasya kutaḥ sukham ||2.66||
穏やかではない人にとって、知識はありません。穏やかでない人にとって、熟考はありませんし、熟考の無い人にとって、平和はありません。平和が無い人にとって、どのように幸せがあり得るでしょう?
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クリシュナはここで、心が穏やかでない状態[a-yukta]について語っていますが、これは私たちをジャッジしたり、自己批判させるためのものではありません。
「自分はアユクタだからダメ」と落ち込む必要はなく、目的はあくまで現状を正しく理解し、必要な対処(ラーガ・ドヴェーシャの処理)を行うことにあります。
アユクタとは、ラーガ・ドヴェーシャに考えが奪われ、自分自身の本質を理解するブッディが働かない状態を指します。
ラーガ・ドヴェーシャは常に私たちの注意を外側の刺激へと惹きつけようと叫び続けているため、それらが処理されていないと、ギーターを読もうとしても眠くなったり、他のことがしたくなったりして、自己の知識へのコミットメントが生まれません。
大切なのは、ジャッジではなく、この心のメカニズムに気づくことです。
◎欲求は、自分自身の知識への興味を抑える
ラーガ・ドヴェーシャに翻弄されていると、自分自身の内側を見つめる探求や熟考への興味はかき消されてしまいます。
短時間ですら、自分自身と座ることが難しく感じるのは、私たちが自分の不完全さやラーガ・ドヴェーシャにまみれた「限られた自分」にしか目を向けていないからです。
本来アートマーは、無条件に完全な存在です。
この自分を理解し始めると、自然に自分自身を愛し始め、その愛も無条件で完璧なものです。
自分自身に愛を感じてこそ、人は静かに自分と座ることができ、そこに真の穏やかさが生まれます。
自分自身と座ることができない状態は、常に不満やかき乱された状態、すなわち「平和のない状態[a-śānti]を意味します。
◎幸せは穏やかな考えにだけに起こり得ます
多くの人が「平和よりも刺激的な幸せが欲しい」と考えがちですが、本質的には、内側の穏やかさ[śānti]こそが幸せ[sukha]の土台です。
自分自身と静かに座ることができず、考えが動揺しイライラしている状態[a-śānta]では、どんな喜びも通り過ぎてしまいます。
逆に、内側が穏やかな人は、外側に特別な刺激や、ハッピーアワーのような娯楽を必要としません。
そのような人にとっては、世界のありとあらゆるものが楽しく、まるで絶え間ないジョークのように映ります。
この揺るぎない幸せを手に入れるためには、ラーガ・ドヴェーシャを処理し、知識を定着させるプロセス(シュラヴァナ、マナナ)が必要です。
心が整って初めて、知識は安定し[sthira]、永続的なスカがもたらされます。
シャンカラバーシャにおける定義
भावना 1/1 आत्म-ज्ञान-अभिनिवेशः 1/1(自分自身の知識についての帰依)
バーヴァナー[bhāvanā]という言葉は、通常、重ね合わせ(superimpose)という意味です。
ex1.ロープを蛇に見る様な、間違い
ex2.祭壇の彫像をイーシュワラとして見ること
この2つはバーヴァナですが、この詩では「熟考」という意味で扱います。
