2020/11/21
इन्द्रियाणां हि चरतां यन्मनोऽनुविधीयते ।
indriyāṇāṃ hi caratāṃ yat manaḥ anuvidhīyate |
तदस्य हरति प्रज्ञां वायुर्नावमिवाम्भसि ॥२.६७॥
tat asya harati prajñāṃ vāyuḥ nāvam iva ambhasi ||2.67||
水上で小さな船を風が運び去る様に
動き回る感覚器官に連れ去られる考えは
まさに、知識を奪います[2-66]
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考えは、それぞれの活動エリア従い
動く感覚器官全ての後を着いて行きます。
例えば、目は色や形を見るという分野で
耳は、音に関する分野です。
それぞれの感覚器官に、それぞれの活動エリアがあり
感覚器官が、それぞれのエリアで対象物を体験し
自然と考えは何らかの空想に流され
感覚器官が切望するままに従います。
この詩で話されている人の考えは
感覚器官の認識と繋り
内側に、何らかの切望や空想を持ちます。
その人の自分自身の知識は
去ってしまった同然です。
クリシュナは、この点を例える為に
小さな船の目的地を
奪い去ってしまう風の例えを使います。
自分自身の知識が奪い去られ
考えはその対象物だけに忙しく関わります。
多くのラーガ・ドヴェーシャがあり
そこに時間を費やし
自分自身の知識の為の時間がありません。
あなたが望むような状況は起こらず
心配事が常にあり、その心配の形は
やがて欲望や、残念さ、失望、悲しみ、落胆、
不安、絶え間なく何かを失っている感覚などの形となります。
考えが対象物で占領された時、心配が起こります。
ところが自分自身[アートマー]で占められた時
心配がなく、ただ穏やかさがあります。
私自身は何処かへ行ってしまったりせず、じっとしてます。
20年後にあなたが戻って来たとしても
アートマーはまだ、サット・チット・アーナンダ。
どんな本を読んだとしても
アートマーは、アサット・チット・アーナンダに成長しません。
知識の対象が自分自身[アートマー]なら
あなたにはアーナンダがあります。