
इन्द्रियाणां हि चरतां यन्मनोऽनुविधीयते ।
indriyāṇāṃ hi caratāṃ yat manaḥ anuvidhīyate |
तदस्य हरति प्रज्ञां वायुर्नावमिवाम्भसि ॥२.६७॥
tat asya harati prajñāṃ vāyuḥ nāvam iva ambhasi ||2.67||
水の上の小さな船を風が運び去ってしまうように、動き回る感覚器官につられて従う考えは、人の知識を奪ってしまいます。
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自分自身の知識[ātma-jñāna]を持っていたとしても、考えが解決されておらず、感覚器官がそれぞれの領域で対象を追い求めるままに考えがついて行ってしまうなら、その知識は役に立ちません。
感覚器官への切望に考えが繋がっているとき、その考えは自分自身を見極める探求から生まれた知恵を奪い去ってしまいます。
クリシュナはこれを「水上の船が強い風によって進路を奪われる」ことに例えています。
感覚器官という強風に吹かれた考えは、なすべきこと[dharma]に「いいえ」と言い、なすべきでないこと[a-dharma]に「はい」と言ってしまいます。
最初、ラーガ・ドヴェーシャの抑圧は、ひとつの分類のない心配の形としてありましたが、やがて、欲望や、残念さや、失望や、悲しみや、落胆や、不安や、絶え間なく何かを失っている感覚などの形での心配となります。
その結果、考えは心配や失望、不安に占領され、常に満ち足りて変わることのない自分自身[sat-cit-ānada-ātma]を忘れてしまいます。
ところが、自分自身[ātma]で占められたとき、心配がなく、ただ穏やかさがあります。
自分自身はどこかへ行ってしまったりしません。じっとしています。
20年後にあなたが戻ってきたとしても、アートマーは、まだサト・チト・アーナンダです。
どの本を読もうとも、アートマーは、アサト・チト・アーナンダに成長したりしません。
アートマーは、いつも余す所無く満ちていて、限りなく、アーナンダです。
もし、あなたの知識の対象が自分自身なら、あなたにはアーナンダがあります。
