या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で 自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に 気づいている賢者にとっては夜です。[2-69]
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「賢者は、どの様に世界と関わるのか?」 というアルジュナの質問に、賢者についての描写が完全でなかったと考えたクリシュナは、ここで興味深い詩を加えます。
どの様な人が賢者かを知る為に、アルジュナ自身が賢明であるべきです。
要点は、 賢者でない人は、賢くならないと、賢者を本当には理解出来ないということです。
夢の中で、まさか自分が夢の中に居るとは、目覚めるまで信じて疑わない様に、 賢者でない人も、目覚めないと(賢くならないと) 真実(賢者を)を本当に理解できないということです。
「全ての人にとっての夜は、考えや感覚器官が その人自身と共にある賢者にとっての昼である」
とこの詩でクリシュナは例え、その様な人はサムヤミーと呼ばれました。
考えや感覚器官を自由に扱い、制御すること[ヤマ] 知識と共に、ヤマ出来る人がサムヤミーです。
更にクリシュナは「 賢者以外の人にとっての昼は、賢者[ムニ]にとっての夜である」と言いました。
ムニとは、物事をはっきりと見る人[マナナシーラ]です。
このはっきりとした洞察力の人には、皆が昼だと思う状態が夜なのです。
全ての生き物が目覚めている時、賢者は眠り、全ての生き物がが眠っている時、賢者は目覚めています。
これは賢者が、コウモリの様に夜行性だということではなく、 暗闇では、あるがままにものが見えない様に、無知[アヴィッデャー]であるということです。
人々は、この無知の眠りの中で 夢遊病者の様に、活動していても眠っていて、ある種のリアリティに目覚めていません。
完全なる熟睡、完全な無知 、完全な目覚めには問題はありません。
問題は夢の中の様に、半分起きていて、 間違いが起こる可能性のある状態です。
夢の世界では、全てが二元性[ア・ドヴァイタ]で、「知る人(主体の私)」が、「知られるもの(対象物の犬)」と区別されます。
そして、この「知識(私の記憶)」は、「知る人(主体の私)」から区別されます。
「知る人」「知られるもの」「知識」の3つは、全て別の物として区別されますが、夢から目覚めた時、「知る人」「知られるもの」「知識」の3つは全て私の記憶、1つのものです。
夢の中で知られていたものは、知識から離れたものではなく、知識は、知る人から離れたものではありません。
そして知る人は、目覚めている人から離れたものではありません。
夢を見ていた人が目覚めた時、夢に属している3つ全てが、目覚めている人の中に溶け込み「私は夢を見ていた」と人は言うのです。
あなたは行いをする人[カルター]だと、ヴェーダすら二元性を認めています。
ヴェーダは、あなたにカルマを行うことで、何を得るのかも言います。
ヴェーダで為されるべき様々な儀式が述べられ、これら全ては二元性を意味します。
前半の部分のヴェーダでは、「あなたは何か結果を望む人で、後程、結果を手に入れる人」と言います。
儀式をし、プンニャが生まれ、プンニャが、その人と結果を繋げます。
人々、儀式、その結果は全て異なるものですから、二元性をなしています。
知覚は異なる種類の知識を得て、それに基づき、全てがあなたから離れていると結論付けます。
「自分を行い手」と見ている人に、何をすべきで、何をすべきでないかを、シュルティーが話しますから、二元性が、まるでリアリティである様に思われます。
目覚めている時、夢と同様に「私は、世界と離れている人」と考え、これが無知の眠りです。
ここで眠りとは、夢を見ている人の事で、その人は完全に寝ていません。
肉体は、世界と出会い、体験する場所です。
あなたは体験する人
1匹の蚊も体験する者
あなたは、1匹の蚊の体験の対象です。
この様に100通りの体験があり、異なる行い手がいて、様々な種類の行いがあります。
痛みと喜びがあり、私が取るに足らない人である事を証明する為に、もがいています。
そして、そのもがきは、決して終わる事がありません。