千葉県立 青葉の森公園近くの小さなヨガ教室

ギーターヨーガ

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【ギーター】第2章69番目の詩

या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।

yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |

यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥

yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||

全ての生き物にとっての夜の中で、自分自身を自由に扱える賢者は目覚めています。生き物たちが目覚めているその中に、気づいている賢者にとっては夜があります。
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アルジュナの「スティタ・プラッグニャとはどのような人か、どのように世界と関わるのか」という問いに対し、描写が完全でなかったと考えたクリシュナは、包括的な答えを提示しました。

賢者とは、外側の対象に依存せず、自分自身の中に幸せを見出し、あらゆる束縛的な欲求から自由な人です。

その知恵が安定しているのは、ラーガ・ドヴェーシャという「知恵を奪い去る強風」を克服し、カメが手足を引っ込めるように、感覚を自在に制御できる(自分自身の手の内に置く)からです。

しかし、ここでクリシュナは重要な事実に直面します。

それは、「誰かが賢者であるかどうかを見極めるには、自分自身が賢者でなければならない」ということです。

アルジュナは賢者の特徴を知ることで、それを自分自身のサーダナの指針にしようとしましたが、自分自身の知識が伴わなければ、その特質の真の意味を理解することはできません。

クリシュナは、アルジュナがまだ「知るべきこと」の入り口に立っていることを理解していました。

無知と知識は、夜と昼のようです

クリシュナは、賢者とそうでない人の「現実の見え方」の決定的な違いを、昼と夜の比喩で描写しました。

一般の人々が「現実」だと思って活動している状態(昼)は、賢者にとっては「無知[a-vidyā]」という暗闇の中の眠り(夜)にすぎません。

人々は目覚めているつもりで活動していますが、真のリアリティ(自己の本質)を知らないため、聖典の視点からは「夢遊病者」や「夢を見ている人」のように映ります。

対して、一般の人々にとって全く見えず、関心もない「自分自身の真実」という暗闇(夜)において、考えと感覚を自在に扱う賢者[saṃyamī ]は、はっきりと目覚めて(昼)います。

賢者[muni]とは、物事をあるがままに、はっきりとした洞察力で見る人のことです。

二元性のリアリティ

夢の世界では、全てが二元性[a-dvaita]で、「知る人(主体の私)」が、「知られるもの(対象物)」と区別されます。

そして、この「知識(私の記憶)」は、「知る人(主体の私)」から区別されます。

「知る人」「知られるもの」「知識」の3つは、全て別の物として区別されますが、夢から目覚めた時、「知る人」「知られるもの」「知識」の3つは全て私の記憶、1つのものです。

同様に、私たちの日常生活(起きている状態)も、ヴェーダーンタの視点からは「無知の眠り」の中の夢に例えられます。

ヴェーダの前半部が、儀式や行いの主体[kartā]として私たちに語りかけ、プンニャが、その人と結果を繋げるのは、私たちが「自分は世界から切り離された小さな存在である」という二元性[dvaita]の夢の中にいるからです。

カルターであり、ボークターであるという認識、そして他者や蚊とは違うものという認識、喜びや痛みの確信etc...

これらすべては、無知という眠りが続く限り「確かな現実」として現れます。

しかし、夢から目覚める(自己を知る)とき、これらすべての区別は、唯一の真実であるブランマンの中に解消されます。

唯一無二のリアリティ

私たちは通常、自分を世界から切り離された存在と考え、目の前の相違(二元性)を絶対的な「確かさ」として捉えています。

しかし、その「確かさ」の中で唯一見落とされているのが、究極の真実[paramārtha-tattva]です。

夢の中での区別が目覚めによって解消されるように、賢者にとっては、知る人、知られる物、知識、行い、そして世界そのものが、すべて「私」という一つのリアリティに集約されます。

「私はこれらすべてである[aham idam sarvam]」という宇宙観に目覚めたとき、知る人と知られる物の境界線はありません。

一方で、この真実を知らない人々にとって、世界は自分から切り離された「耐え難いリアリティ」として立ちはだかります。

これがサムサーラの本質です。

賢者は、人々が二元性の夢に眠っている間、この唯一無二の「私」という事実に目覚めているのです。

比較は不可能です

賢者と一般の人々の世界観は、決して出会うことのない「太陽と暗闇」のような正反対の関係にあります。

一般の人々は、無知ゆえに、限りある存在である[a-pūrṇaḥ]という二元性の世界(夜)を「昼」だと思って生きています。

しかし、賢者は「私は満ち足りていて、限りがない[aham pūrṇaḥ]」という究極の一元性の真実(昼)に目覚めています。

この「目覚め」は太陽が昇るようなものであり、太陽が昇れば暗闇が消え去るように、知識が現れれば二元性の苦しみ[samsāra]は跡形もなく消えてしまいます。

faviconナーラダが太陽神に「あなたでさえも見た事のない人がいる」と言うので、「私が見たことがない人とは誰?」と太陽神はナーラダに尋ね、ナーラダは「暗闇さんと呼ばれる女性です」と答えました。

「何処に暗闇はいるのか?」と太陽が尋ねると、「彼女は今インドです。インドに行けば会えるでしょう」とナーラダが言いました。

暗闇さんを見たくて、太陽は東の空に昇りましたが、暗闇さんは、地球の反対側西のアンティポディーシュに行きます。

太陽神は怒り、本気でこの女性と会いたいがゆえ、再び彼女の後を追いますが、太陽が東に昇ると、暗闇さんは西に行き、太陽が西に沈むと、暗闇さんは東に来るのでした。

こうして太陽は、暗闇さんを見つけようと回り続け、今日でさえ続けています。

ナーラダと太陽の物語が示すように、太陽(知識)は暗闇(無知)と出会うことができません。

なぜなら、知識があるところにはもはや無知は存在し得ないからです。

賢者はもはや「悲しみ」や「不公平な世界」を見ることはありません。

なぜなら、彼らにとってはアートマーこそが世界のすべてであり、完璧に満ち足りた存在だからです。

賢者と、そうでない人の宇宙観

賢者[jñānī]と無知な人[a-jñānī]の見ている世界は、根本的に異なります。

無知な人々にとって、神は遠い天国にいて、人々の運命を左右する「信じる対象」にすぎません。

彼らは分離した世界の中で、当て推量や信念、そして絶え間ない問題を抱えて生きています。

しかし、賢者にとっては「私がありとあらゆるものである[aham idam sarvam]」ということが揺るぎないリアリティです。

肉体も考えも世界も、すべては自分自身の輝き[vibhūtiḥ]であり、幸せそのものです。

これは「ロープを蛇と見間違える」有名な比喩で説明されます。

暗闇でロープを蛇だと思い込む人は、存在しない蛇に怯え、その音まで聞こえる錯覚に陥ります。

しかし、光(知識)によって「それは単なるロープだ」と知っている人にとって、蛇の恐怖は最初から存在しません。

賢者はこの「ロープ(真実)」に目覚めており、他の人々が怯えている「蛇(二元性の世界)」を少しも見ることがないのです。

賢者を知るために、あなたは賢しこさが必要です

賢者を知るための唯一の方法は、あなた自身が賢者になること、つまり「自分自身を知る」こと以外にありません。

アルジュナは賢者の特徴を真似ることで賢くなろうとしましたが、クリシュナはその期待を打ち砕きました。

なぜなら、知恵とは外側の振る舞いではなく、自分自身の本質そのものだからです。

シャンカラの解説によれば、賢者はもはや自分自身をカルターとは見ていません。

これは宗教的な儀式[vaidika-vyavahāra]だけでなく、掃除や皿洗いといった日常の世俗的な活動[laukika-vyavahāra]においても同じです。

活動が起きていても、「私がこれをしている」という二元的な観念が消滅している状態、それが無知の眠りから目覚めた賢者の真実です。

行いをするために、「私は行い手」と知らなければなりません 

ヴェーダが命じるあらゆるカルマは、個人が「私は~である」という特定のアイデンティティ(観念)を持っていることを前提としています。

「私は学生である[brahmacārī]」「私は家長である[gṛhastha]」という観念があって初めて、それに応じた義務や儀式が生じます。

しかし、自分自身の真実[sat-cit-ānanda]に目覚めた人にとって、これらのアイデンティティは「無知の産物」にすぎません。

真昼の太陽のような自己の知識がひとたび現れれば、「私はカルターである」という観念そのものが消滅します。

その結果、世俗的な活動[laukika-vyavahāra]も、宗教的な活動[vaidika-vyavahāra]も、その「根拠」を失って去っていきます。

行いとは、自分が限りある存在であるという誤解から生まれる「もがき」の一種だからです。

知識は行い手という観念を取り除きます 

シャンカラの解説によれば、知識は無知そのものを取り除きます。

そして、原因である無知が去れば、その産物(子供たち)である「私は行い手である」という観念や、それに伴うあらゆる活動も自然に消滅します。

ロープを蛇と見間違える例えでは、ロープの知識が「ロープへの無知」を破壊した瞬間、その産物である「蛇(恐怖や震え)」も同時に消え去ります。

同様に、「自分は時間や場所に縛られた者だ」「私は家長である[gṛhastha]」という無知に基づく観念を持っている人に対してのみ、ヴェーダは儀式を命じます。

しかし、ヴェーダの最終結論「あなたはブランマンである[tat tvam asi]」という知識に目覚めたとき、人はすべてのカルマを手放した者[sarva-karma-sannyāsī]となり、二元性から完全に自由になります。

なぜ私はカルマを演じるべきなのですか? 

なぜヴェーダは最初に「あなたはブランマンである」と教えず、遠回りに見える「儀式[karma]」を命じるのでしょうか。

その理由は、準備ができていない考えに真実を伝えても理解されず、ただ混乱を招くだけだからです。

カルマの目的は、モークシャを直接作り出すことではなく、考えの浄化[citta-śuddhi]にあります。

人は天国などの望ましい結果を求めてカルマを演じる過程で、ダルマとアダルマの価値観を養い、ラーガ・ドヴェーシャの衝動を静めていきます。

この浄化された考えにこそ、真実を見極めるヴィヴェーカが宿ります。

シャンカラは、当時の流行であった「知識と行いの結合[samuccaya]」という考えを否定しました。

真実は「作るもの」ではなく、すでに「在るもの」、それを「知る」べきだからです。

カルマは知識を得るための準備として不可欠ですが、行い手観念と共にカルマは去り、人はサンニャーシーとなります。

賢者は、行いをもとに真似できない 

賢者がカルマをしないのは、もはやその必要がないからです。

まだ準備段階にある探求者が、賢者の形だけを真似て「行いを放棄する」ことは、単なる怠慢にすぎません。

さらに驚くべきことに、賢者にとっては、真実を知るための道具であったヴェーダーンタですら、その役割を終えています。

ヴェーダーンタは「あなたはブランマンである」と教えるためのプラマーナですが、ひとたびその知識が確立されれば、プラマーナ自体も「ミッテャー」です。

最終的には、「知る人[pramātā]」「知られる物[prameya]」「知識の道具[pramāṇa]」という3つの区別が失われ、すべてが唯一のブランマンの中に解消されます。

「私は知る人である」という限定的な観念さえも、知識によって取り消されるのです。

知る人、知られるもの、知識の解消 

知識がどのように働くかを説明するために、シャンカラは「棘で棘を抜く」例えや「火葬の棒」の例えを用います。

火葬の際、体が完全に焼かれたかを確認するための棒は、その役割を終えた最後には、自らも火の中に投げ入れられ燃え尽きます。

同様に、「タット・トヴァム・アシ」というプラマーナは、「知る人[pramātā]」という個の無知を焼き尽くしますが、最後にはその「知る人」という概念そのものを否定することで、プラマーナも役目を終えます。

もし「知る人」がいないのであれば、もはや「知るための道具」も「知られる対象」も必要ありません。

知識の目覚めの中で、プラマーター・プラメーヤ・プラマーナというすべての二元性は、唯一のブランマンというリアリティの中に溶け去ります。

一般人にとっての「昼(確かな現実)」であるこの3つの区別が、賢者にとっては「夜(実体のないもの[mithyā])」であるというのは、まさにこの「個の消滅と全体への目覚め」を意味しているのです。

賢者の価値を真似る

スティタ・プラッニャを真に理解するには、自分自身がその知恵[prajñā]を持つ以外に方法はありません。

「マハートマーがマハートマーを知る」のであり、外側からの描写には限界があるからです。

賢者は、行い手観念が否定されているため、いかなる義務にも拘束されないサルヴァ・カルマ・サンニャーシーです。

ですから、賢者を真似ることは危険です

そこでクリシュナは、アルジュナが真似ることのできる「価値観、考えの制御、熟達」といった内面的な特徴に焦点を当てました。

これらは探求者にとって、自分を磨くためのサーダナとなり得るからです。

「夜と昼」の比喩に驚愕し、立ち尽くしてしまったアルジュナ。

クリシュナはそんな彼に対し、慈悲の心から、より理解しやすい別の例え話を付け加えることで、さらなる導きを与えようとします。