【ギーター】第2章69番目の詩⑦
2021/03/20
या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で
自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に
気づいている賢者にとっては夜です[2-69]
–
足に刺さったトゲを抜く為に、トゲを使いますが
トゲが取り除かれたなら、足に刺さったトゲも
取り除くためのトゲも両方捨てます。
同様に、最後のプラマーナ
「タット・トヴァム・アシ」この表明そのものが
去ってしまうとシャンカラは言います。
もう1つの例えは
体が火葬される時、沢山の薪が積まれ
その薪の上に、肉体が置かれます。
穀物の脱穀した殻と、小さな木片で
体は覆われ、火が灯されます。
体が火に包まれると
火葬儀式の参列者は去りますが
翌日、その参列者達は、灰と骨を拾う為に戻ってきます。
その時、燃え残った体の部分などは無いように
何も残されず、完璧に焼かれなければなりません。
そうなるまで儀式は不完全です。
体が完全に焼かれる様に
火葬場の責任者はしなければなりません。
死体には触れるべきではありませんから
火の中の死体を確認する為に棒が使われます。
体が完全に焼かれれたことが確かめられると
その人は火の中に棒を投げ入れ、その棒も焼かれます。
同様に「あなたがあれです[タット・トヴァム・アシ]」
という表明はプラマーナです。
知る人[プラマーター]つまりあなたが
「あなたがブランマンである」と言われます。
あなたがブランマンなら、知る人はいません。
この知識が起こった後、
プラマーターは、まるでプラマーターです。
リアルなプラマーターは、もはや無く
知る人がいない時、プラマーナも去ってしまいます。
知る人、知られるもの、知る道具
3つ全てが、ブランマンです。
この知識の目覚めの中に二元性は去ります。
知る人・知られるもの・知識の活動の全てが
「わたしはブランマンである」という
知識の目覚めの中に消えてしまいます。
全ての人にとっての昼は、賢者にとっての夜です
とクリシュナが言ったのは、こういうことです。
ですから、賢者の価値を真似る
しっかり知識の根付いた人[スティタ・プラッニャ]
のどんな描写も、実際役には立ちません。
賢者を賢くした智慧[プラッニャー]
について話すことは出来ても
この智慧が無い限り、賢者とは何かを理解できません。
しかし、アルジュナは賢者の描写を知りたがり
賢者がどの様に世界に反応するかを知りたがりました。
クリシュナは、ダルマに関することを除き
賢者を真似ることが出来ないことを
アルジュナに述べました。
行い手であるという観念が否定された賢者にとって
もはやカルマは必要ありませんから
ヴェーダの儀式を行わないかもしれませんし
どんな義務によっても拘束されません。
ですから、賢者を真似ることは危険です。
クリシュナは、真似ることが出来ること
賢者の考え、価値、制御、熟達についてを述べました。
これらは、毎日の生活、振る舞いの中で
探求者にとっての道具[サーダナ]となり得ると
クリシュナはアルジュナに確信させました。
そして、どういう人が賢者なのか?
を知る方法は無い、という意味で
昼と夜が違う様に、賢者は無知な人とは違う
と言いました。
全ての人にとっての夜は、賢者にとっては昼で
全ての人の昼は、賢者には夜です。
アルジュナは、これに驚かされ
クリシュナは、同情と思いやりから
この詩の例え(昼と夜)の次に
アルジュナが賢者とは何か?
その意味を理解させる事が出来る例え話を述べました。