या निशा सर्वभूतानां तस्यां जागर्ति संयमी ।
yā niśā sarvabhūtānāṃ tasyāṃ jāgarti saṃyamī |
यस्यां जाग्रति भूतानि सा निशा पश्यतो मुनेः ॥२.६९॥
yasyāṃ jāgrati bhūtāni sā niśā paśyato muneḥ ||2.69||
全ての生きものにとっての夜の中で 自分を熟知している賢者は目覚めています
生きものが目覚めているその中に 気づいている賢者にとっては夜です[2-69]
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「あなたがブランマンである」と最初にヴェーダが言わないのは、その知識の準備をしなければならないからです。
カルマを果たし、ヴェーダの最後の章に辿り着き理解出来ます。
カルマを果たさなければ、ニャーニーでも、イーシュワラに瞑想する人でもありません。
何も拠り所のない流木の様に、流され孤立してしまいます。
知識の準備が出来ていない人に、教えはなく、教えを乞うので、教えがはじまります。
その代わり、この知識の為の考えの準備として、カルマを果たすことが推奨されます。
イーシュワラ、モークシャに興味がなければ、カルマ・ヨーガも始まりませんから、最初に天国[スヴァルガ]を得る為、人は申し付けられた儀式を行いパーパを避けることができ、プンニャがもたらされると話されます。
価値の価値を持ち、体以外に唯一の自分自身[アートマー]があることを信じます。
この世にはたった1人の人しかいません、それがイーシュワラです。
最初はそれで十分なのです。
ダルマ・アダルマを重んじるなら、リアルとリアルでないことの識別は然程遠くなく、ラーガ・ドヴェーシャの重圧が少なくなります。
これがヴィヴェーカです。
何が何たるかを、問い始めるやいなや始まり、最初に、内側のゆとりがあって、自然にヴィヴェーカがやってきて、自然とヴェーダーンタに向かいます。
ですから自分自身の無知がある限り、人はカルマを果たすべきです。
知識があるなら、カルマの放棄[サルヴァ・カルマ・サンニャーサ]があります。
考えをきれいにする[チッタ・シュッディ]の為に、カルマを果たすのです。
リアリティとは創造されるものではなく、リアリティは既に成し遂げられています。
あるがままです。
何万というカルマを行ってでさえ、「ある」というリアリティを作り出したりできません。
シャンカラの時代には、モークシャは、知識だけは得られず、知識と行いの統合によって得られる[ニャーナ・カルマ・サムッチャヤ・ヴァーダ]という論争が広くなされていました。
シャンカラは、その考え方の間違いを論破する必要に気づきました。
知識を持たない人にとって、ヴェーダによって申し付けられたカルマは確かな根拠のあるプラマーナです。
ところがニャーナがあれば、サルヴァ・カルマ・サンニャーシーで行い手ではありません。
あなたは「賢者はカルマをしないので、私もカルマをしない」などと言うことは出来ず、カルマを演じる必要がありますが、賢者はカルマを演じる必要がありません。
そういう意味で、カルマをしない賢者を見習うことは出来ないのです。
「賢者はどの様なカルマもしない人」とクリシュナは言ってはいません。
「この人には義務がない」と言うなら、カルマ・ヨーガの生活を送らず、代わりに怠惰な人になるに他ならないと、ムムクシュによって解釈される可能性があります。
カルマが申し付けられない、という意味で「賢者にとっての夜が、全ての人にとっての昼である」と、クリシュナが指摘したのです。
知識の道具[プラマーナ]は、賢者にとってプラマーナではありません。
賢者には、全くプラマーナがありません。
最後のプラマーナであるヴェーダーンタですら、役目を終えています。
「あなたがブランマン」と知るまでは、ヴェーダーンタはプラマーナで、その後、それもまたミッテャーです。
「知識の道具」「知られるもの」「知る人」この3つの違いはありません。
知識の道具[プラマーナ]は役目を終え、知る人[プラマーター]、知られるもの[プラメーヤ]も同様に、それはブランマンです。
まさに知る人が、「あなたは知る人ではない」という知識によって取り消されます。
足に刺さったトゲを抜く為に、トゲを使いますが、トゲが取り除かれたなら、足に刺さったトゲも、 取り除くためのトゲも両方捨てます。
体が火葬される時、体が完全に焼かれているか、 火の中の死体を確認する為に棒が使われますが、その棒も最後は燃やされます。
同様に、最後のプラマーナ 「タット・トヴァム・アシ」も去ります。
知る人[プラマーター]であるあなたが 、「あなたがブランマンである」と言われます。
あなたがブランマンなら、知る人はいません。
この知識が起こるなら、 プラマーターは、まるでプラマーターです。
「 知る人」「知られるもの」「知るための道具(知識)」 3つ全てが、ブランマンです。
この知識の目覚めの中に二元性は去り、「 知る人」「知られるもの」「知識」が、「わたしはブランマンである」という 知識の目覚めの中に消えてしまいます。
ですから、賢者の価値を真似たり、知識の根付いた人[スティタ・プラッニャ] のどんな描写も役には立ちません。
賢者を賢くした智慧[プラッニャー] について話すことは出来ても、この智慧が無い限り、賢者とは何かを理解できません。
しかし、アルジュナは賢者の描写を知りたがり、賢者がどの様に世界に反応するかを知りたがりました。
クリシュナは、ダルマを除き、賢者を真似ることは出来ないと、 アルジュナに述べました。
「行い手である」観念が否定された賢者には、もはやカルマは必要ないので、ヴェーダの儀式や、どんな義務にも拘束されません。
ですから、賢者を真似ることは危険なのです。
クリシュナは、真似ることが出来る、 賢者の考え、価値、制御、熟達についてを述べ、これらは日々の生活、振る舞いの中で 探求者にとっての道具[サーダナ]となり得ると、クリシュナはアルジュナに確信させました。
そして「どういう人が賢者なのか? 」を知る方法など無く、「昼と夜が違う様に、賢者は無知な人とは違う」 と言いました。
アルジュナは、これに驚かされますから、 クリシュナは、次の詩で 「賢者とは何か? 」理解させる事が出来る例え話を述べました。