
आपूर्यमाणमचलप्रतिष्ठं समुद्रमापः प्रविशन्ति यद्वत् ।
āpūryamāṇamacalapratiṣṭhaṃ samudramāpaḥ praviśanti yadvat ।
तद्वत्कामा यं प्रविशन्ति सर्वे स शान्तिमाप्नोति न कामकामी ॥२.७०॥
tadvatkāmā yaṃ praviśanti sarve sa śāntimāpnoti na kāmakāmī ॥2.70॥
ちょうど、何も動かず、あふれんばかりの海に水が入るように、全ての感覚の対象物が入って賢者は、平和を得ます(何も変わりません)。ところが、対象物を欲求する人は平和を得ません。
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クリシュナは、アルジュナに賢者のあり方を理解させるため、「海」という壮大な比喩を用いました。
海には2つの際立った特徴があります。
1つは、すでに完全に満ちていること[āpūryamāṇa]、もう1つは、不動で揺るぎないこと[acalapratiṣṭha]です。
池や水たまりは、雨が降らなければ干上がり、雨が多すぎれば土手が壊れて形を失いますが、海は違います。
四方八方の川からどれほど水が流れ込もうが、あるいは日照りで水が入ってこなかろうが、海が海であることに変わりはなく、その水位が変化して溢れ出すこともありません。
この海のように、賢者は自分自身の外側にある「何か(状況、富、賞賛)」が自分を満たしてくれることを期待しません。
外から欲望の対象が流れ込んできても、あるいはそれらが去っていっても、賢者の「満ち足りた静寂[pūrṇa]」は、微塵の変化も起きません。
◎賢者
賢者の心の平安が揺るがないのは、海が流れ込む川の水に左右されないのと同じです。
賢者は、自分自身の本質をアーナンダとして理解しており、その満足は外部の物や状況に一切依存していません。
一般の人は、望みが叶った瞬間にだけ一時的な満足を感じますが、すぐに「自分は足りてない」という感覚に戻ります。
それは、自分を体や考えという「限られたもの」と見なしているからです。
しかし賢者は、「私がある(I am)」という事実そのものが満足である[aham pūrṇaḥ]と知っています。
「足りてない」と思っている人にとって、欲望は焦りや混乱、いらだちを生む苦しみの原因となります。
しかし、すでに「海」のように満たされている賢者にとっては、欲望(川の水)が考えに入ってきたとしても、それが満たされようがなかろうが、その静寂に何の変化ももたらしません。
真の「手放し」は、無理に欲望を抑え込むことではなく、自分自身がすでに満たされているという事実に目覚めることによって、自然に達成されるものです。
◎人の感情のヨーヨーの消滅
賢者にとって、望まれる対象[kāma]がやってくることは、海にさざ波や白波が立つのと同じです。
小さな波は「微笑み」であり、大きな波は「とどろくような笑い」です。
波があろうとなかろうと海の本質が変わらないように、賢者の内なる平和[śānti]は、外部の状況によって揺らぐことがありません。
対照的に、自分自身を「満たされていない」と見なしている人[kāmakāmī ]は、望ましいものが入れば喜び、望ましくないものが入れば落ち込むという「感情のヨーヨー」のような状態にあります。
それは雨量によって氾濫したり干上がったりする「池」のような危うい存在です。
クリシュナはこの「海と池」の対比を用いることで、アルジュナに賢者の内面的な自由を理解させ、同時に彼に希望を与えました。
欲望に翻弄されるのではなく、すでに満ち足りている自分自身の本質に落ち着くこと。
クリシュナはスティタ・プラッニャのお話とともに、次の2つの詩でこの章全体をまとめました。
