
विहाय कामान् यः सर्वान् पुमांश्चरति निस्पृहः ।
vihāya kāmān yaḥ sarvān pumāṃścarati nispṛhaḥ |
निर्ममो निरहङ्कारः स शान्तिमधिगच्छति ॥२.७१॥
nirmamo nirahaṅkāraḥ sa śāntimadhigacchati ||2.71||
全ての束縛のある欲求を手放して、切望から自由に、「私」という限られた感覚を持たずに動き回るその人は、平和を得ます。
-
賢者とは、すべての束縛、条件付けの欲求を手放し、世界の中で真に自由に動く人のことです。
王として国を治める者であれ、すべてを捨てたサンニャーシーであれ、自らの中に幸せを見出しているという点において、その自由さに違いはありません。
一方で、多くの人々は「私のもの[mama-kāra]」という感覚に縛られています。
子供がおもちゃにしがみつくように、大人もまた、より複雑で高価な「おもちゃ(所有物や人間関係)」にしがみつき、「私から取らないで」と恐れています。
形が変わっただけで、内面は「髭の生えた子供」のままであり、何かに依存しなければ安心できません。
賢者は、自分自身がすでに「安全で幸せ」であるため、もはや何かにしがみつく(私のものと言う)必要がないのです。
◎「私」とか、「私の物」はありません
エゴ[ahaṅkāra]の本質は、自分を「これっぽっち」と見なすことにあります。
自分を小さく見積もるからこそ、他者と比較し、「私のもの[mama-kāra]」を増やして自分を補強しようとします。
しかし、知識によって「私がここにあるすべてである」と目覚めたとき、事態は一変します。
すべてが「私」であるならば、もはや比較する対象(他者)が存在しません。
比較がなければ、プライドも虚しさも、そして「私のもの」という執着も成立しなくなります。
「私がすべてである」という認識は、エゴを肥大化させることではなく、エゴという境界線を無限にし、エゴそのものを蒸発させることです。
カルターとしての限定された個人は消え去り、ただ一つのリアリティであるブランマンとしての「私」だけが輝いています。
これが、束縛するカーマから完全に自由になった賢者の真実です。
◎賢者はどのように世界に住みますか?
クリシュナが用いた 「動く・歩む[carati]」という言葉は、賢者の生き様を美しく表現しています。
賢者は世界から逃避するのではなく、世界の中に住み、活動し続けます。
しかし、その活動は「幸せになりたい」という欲求のプレッシャーから生じるものではありません。
世界が賢者の内側に入ってくるとき(体験)、あるいは賢者が世界の中へ出ていくとき(活動)、どちらの場合も、静寂[ śānti]があります。
知識によって、行い手や体験者という観念が否定[bādhita]されます。
外側からは活動しているように見えても、内側では「私はブランマンである」という真実に寛ぎます。
クリシュナもシャンカラも、教えを説き、執筆するという膨大な活動を行いながら、自分自身を「行い手」とは見ていませんでした。
スティタ・プラッニャは、ブランマンであり続けます。
