विहाय कामान् यः सर्वान् पुमांश्चरति निस्पृहः ।
vihāya kāmān yaḥ sarvān pumāṃścarati nispṛhaḥ |
निर्ममो निरहङ्कारः स शान्तिमधिगच्छति ॥२.७१॥
nirmamo nirahaṅkāraḥ sa śāntimadhigacchati ||2.71||
全ての束縛ある欲求を手放し、切望から自由で
私、私の物、という感覚から自由で
動き回るその人はシャーンティを得ます[71]
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賢者は、全ての束縛ある欲求を手放した人で、世界で自由に動く人です。
カルマヨーギーのジャナカ王も、サンニャーシーのシャンカラも、モークシャに違いが無く、自分自身でいて幸せですから、安全や、幸せである為の状況への切望は無く、「私の」という感覚がありません。
人は、人や物にしがみつき、それを「私の物」と考えます。
「これには触れないで。これを取らないで。これは私のおもちゃ」と、子供の様に言います。
子供時代の「私の物」、大人の「私の物」の違いは、おもちゃが他の物に置き換えられただけで、大人の私は、髭の生えた子供に過ぎません。
しかし、全体、全てのものがわたし自身であると見た時、全てが変わります。
わたしは父であり、母であり、全ての場所です。
全てがわたしである時、「私の」はありません。
「私の物」があるなら「あなたの物」「彼の物」「彼女の物」もあります。
全ての問題の原因が、ここにあります。
あなたが、あなた自身の目によって小さくなります。
「わたしはここにある全て」と知り、「私」「あなた」が無いなら、あなたは賢者です。
あなたが「わたしはここにある全て」と言う時、「私の物」という感覚は去ります。
全てがわたしである時、「私」はありません。
「私」という感覚も去ります。
人々は、それは虚しいと考えますが、虚しさは、ちっぽけである時だけ、比較とプライドがある時のみ存在します。
所有物、能力、技術を測るというエゴ[アハンカーラ]があります。
しかし、エゴが「わたしが全てである」という範囲まで拡大した時、まったくアハンカーラはありません。
ただリアリティ、つまりブランマンとして知識があるだけです。
ただ「わたし[アハン]」だけがあります。
「私」とか「私の物」の感覚を持たない人です。
「私は行いをする人」は、間違った観念です。
全てがわたし自身と知る賢者には、束縛する欲求はありません。
賢者は世界から逃げ去ったりせず、世界の中で、動き回り、活動的であるかもしれません。
世界の活動に従事しながら、ただシャーンティです。
どの様な世界がその人の中に入ってきても、シャーンティだけが占有しています。
私達は、欲求の抑圧で動き回るかもしれませんが、賢者は、その様な束縛、抑圧のある欲求から自由です。
活動的な賢者がいたとしても、活動がその人の智慧を変えたりしません。
行い手である、体験者である、という「私」という観念は無いのですから。
変化がなく、シャーンティだけが残ります。
世界が賢者に入る時も、何かをしたとしても、その人が、体験者や行い手になったりしません。
土の中に、ポットらしさが無い様に、質のないわたしの中に、行い手や体験者はありません。
体験者、行い手、両方が賢者によって否定されました。
体験者や行い手は、まるであり、本質的にそれはありません。
これがバーディタと言います。
知識があり、「わたし」に集約される、行い手や体験者というリアリティが否定されます。
クリシュナはアルジュナに話し、シャンカラは解説を書き、行いをする人(行い手)でしたが、自分自身を行いをする人であるとは見てはいません。
賢者にとっての行い手は、しているだけで「私は行い手」という観念はありません。
スティタ・プラッニャはブランマンであり続けます。