
एषा ब्राह्मी स्थितिः पार्थ नैनां प्राप्य विमुह्यति ।
eṣā brāhmī sthitiḥ pārtha naināṃ prāpya vimuhyati |
स्थित्वास्यामन्तकालेऽपि ब्रह्मनिर्वाणमृच्छति ॥२.७२॥
sthitvāsyāmantakāle'pi brahmanirvāṇamṛcchati ||2.72||
これが、ブランマンにしっかりとどまるという意味です。パールターよ。これを得ることで、人は惑わされません。たとえ人生の終りにでも、その中にとどまって、人は自由を得ます。
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クリシュナが説く「スティタ・プラッニャ」とは、単なる一時的な状態ではなく、知識に留まること[jñāna-niṣṭhā]を指します。
通常、「状態」という言葉は、起きている状態、夢の状態、熟睡の状態のように、現れては消えるものを意味します。
瞑想で至る深い境地[nirvikalpaka-samādhi]でさえ、そこから覚めれば終わってしまう一つの「状態」にすぎません。
しかし、ここで語られる 「brāhmī sthitiḥ」は、何かを得たりどこかへ行ったりすることではなく、「すべては自分自身であり、自分こそがブランマンである」という揺るぎない理解です。
知識は一度確立されれば、眠っている間も活動している間も、失われることはありません。
◎ブランマンの知識は状態ではない
ここでの教えは、自己の真実は「状態」ではなく「知識」であるということです。
瞑想によって至る「状態」は去ってしまいますが、正しく得られた「知識」は決して失われません。
一度「自分は死んでしまう個人[jīva]であり、行い手である」という無知が、知識によって破壊されれば、その勘違いが戻ってくることはありません。
蛇だと思っていたものがロープだと分かった後で、再び本気で蛇だと怯えることができないのと同じです。
ですから「また無知に戻ったらどうしよう、また生まれ変わらなければならないのか」という不安は無用です。
本質[svarūpa]を理解したとき、制限された「個人」という概念そのものが消え去り、永遠の自由が確立されます。
◎自分自身の知識を得るのに遅すぎるというのはない
クリシュナは、この知識にどとまることで、生きながらにして自由[jīvam-mukata]を得られると言います。
この自由は、人生のどの段階にあっても、たとえ死の間際であっても、人生の最後の日であっても知ることがます。
身体が老い、五感が衰え、社会から孤立しているように見えたとしても、それは知識の確立には何ら支障となりません。
むしろ、人生の酸いも甘いも噛み分けた「老い」は、究極の成熟をもたらす機会です。
若い頃のように「何かを得るために動く」ことができなくなった状況は、見方を変えれば、外側の対象への依存を離れ、自分自身と向き合うための絶好の準備期間となります。
人生の経験を通じて培われたヴィヴェーカを持つ人にとって、他者が去っていくことや身体の衰えは問題ではありません。
なぜなら、その人は「自分はもともと何にも所有されておらず、自分自身がすべてである」という真実に耳を傾ける準備ができているからです。
◎モークシャは時間をかける必要はありません
知識による自由[mokṣa]を得るのに、遅すぎるということはありません。
その象徴として語られるのがパリークシット王のエピソードです。
「あと7日で死ぬ」という呪いを受けた王に対し、賢者シュカは「あなたはあと7日も生きることが分かっているのだから幸運だ」と笑いました。
真実を知るには、7日間あれば十分すぎるほどだからです。
そして7日間の間に、案の定この王様はニャーニーになりました。
若く健康なブランマチャーリーであれ、死を目前にした老人であれ、身体の条件は知識の本質を妨げません。
五感が健在で、思考が明晰であるなら、なおさら知識を得る可能性は開かれています。
必要なのは、特別な体験や、死後の救済ではなく、「私はブランマンである」という疑いのない知識のみです。
バガヴァッド・ギーター第2章は、こうして完結します。
ओं तत् सत्। इति श्रीमद्-भगवद्-गीतासूपनिषत्सु ब्रह्म-विद्यायां
योग-शास्त्रे श्री-कृष्णार्जुन-संवादे साङ्ख्य-योगो नाम द्वितीयोऽध्यायः॥
