उद्धरेदात्मनात्मानं नात्मानमवसादयेत् ।
uddharedātmanātmānaṃ nātmānamavasādayet |
आत्मैव ह्यात्मनो बन्धुरात्मैव रिपुरात्मनः ॥६.५॥
ātmaiva hyātmano bandhurātmaiva ripurātmanaḥ ||6.5||
自分自身で、自分を台無しにしませんように。自分自身で自分を救いますように。
自分自身のみが自分自身の恩人で、自分自身のみが自分自身の敵なのです。[5]
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この詩は、あなたが自分自身を救わなければならないこと、あなたが自分自身を破壊してはならないこと、あなた自身が破壊されることを許してはならないことを明確に述べています。
ヨーガ・アールーダ、つまりサルヴァ・サンカルパ・サンニャーシーは、サムサーラの人生から自分自身を完全に救い出します。
海で溺れている自分を引っ張り上げ、自らを救い出す様なものです。
私達は、安全で無いことから自分自身を救い出したい、と思っていて、誰もが自分の安全の為に忙しく働いています。
その追求は「自己中心的」で、自分自身の為だけであることに疑問の余地はありません。
新しいライフスタイルを求めることではなく、人はとても根本的な問題に対する答えを求めています。
ある種の疑問がその人に起こり、それが漠然としていても、その疑問自体が、その人の人生に特定の方向性を与えラーガ・ドヴェーシャの魔力に自分が影響を受けていることを理解するに至ります。
誰もがする自然な追求[スヴァーバーヴィカ・プラヴルッティ]は、これらの好き嫌いから来ていることを理解し始めます。
「私はそれが好きで、それが欲しい。だから私はそれをする。」
全ての反応が、これらのラーガ・ドヴェーシャからのみ起こるのです。
そして、この特殊のリアリティの枠の中で、全てが正当化され、 怒り、悲しみ、痛みが当然のものとなり、私達は混乱し、問題にぶつかります!
正当な理由があると認めるなら、自然な行い[スヴァーバーヴィカ・プラヴルッティ]を疑うことなく前に進むことが出来てしまいますが、行いそのものに疑問を持ち始めた時、今の人生そのものに疑問を投げかけます。
あなたが真剣に疑問を持つ時、モークシャへのサンカルパがあるなら、根本的な問題を理解出来ます。
この問題に対し、成熟した対処法と、未熟な対処法があり、盲目的な祈りではなく、私達が見出した知恵の中に、祈りに満ちた生活、理解のある賢明な祈りの生活と呼ばれるものがあります。
それが祈り深い態度であり、カルマ・ヨーガです。
カルマ・ヨーガは、神[イーシュワラ]を理解し、受け入れた、祈りに満ちた生活を意味します。
これが、熟考する能力、瞑想する力をもたらすのです。
その様な生活が自分自身[アートマー]の知識を持って、自分自身を扱うという態度を自然に作り出すのです。
この様にカルマ・ヨーガによって知識[ニャーナ]を得られることは実に明らかです。
この詩の中で、アートマーという言葉は、すでにサムサーラの海にいる個人です。
無知ゆえにサムサーラと共に生まれました。
サムサーラから出るには、自分自身の意志によって[ アートマナー]自分自身に向き直ります。
自分自身や、自分の価値に疑問を持ち、自分自身に問いかけ、全ての価値構造全てを再構築します。
全ての問題は、何が大事かの間違った優先事項が原因ですから、価値構造を再編成し、その過程で優先順位が適切になっていきます。
こうした価値構造の探求は、自分自身によってのみ[アートマナー エーヴァ]なされます。
それは、その人がすべきことと、すべきでないことの探求です。
この探求[ヴィチャーラ]で、世界観が、ある認識的な変容を遂げます。
これが、探求の第1段階です。
次の段階も、自分自身の探求によって、ある状況におかれた自分の無力さを理解します。
それ自体が、その人に祈りに満ちた考え方をもたらすのです。
ある状況が、ある疑いを呼び起こし、その後にイーシュワラの理解があり、祈りがあります。
これが人を、体・考え・感覚器官の統合された人[ヴァシー]にします。
知識を求め、先生のところに行くのも、その人の努力です。
この様に、その人は自分自身を向上させます。
自分の味方になる人は自分のみ[アートマー エーヴァ アートマナハ バンドゥフ]とクリシュナは述べています。
価値構造が混乱するなら、全人生、そして周りの人の人生が混乱したものになるので、クリシュナは「自分自身が自分の敵だ」とも言います。
考え、意志が間違って使われ、また全く使われないなら、当然それが自分の敵になり、立ちふさがり、足を引っ張るでしょう。
考えは「あれやこれやが自分を救ってくれる(私は救われなければならない人)」という様々な観念が生まれる場所です。
自分は愚かだから、馬鹿にされても仕方がないと、自分が馬鹿にされるのを認めるので、自分自身が自分の敵なのです[アートマー エーヴァ アートマナハ リプフ]。
「自分自身で自分を台無しにしませんように。[アートマーナム ナ アヴァサーダエート]」
言い換えるなら、意志を上手く使い、内なる、静かな変革を起こしますように。
静かな、内なる変革は、物事の見方や、理解のありかたにおいて起こります。
ですから、自分を見下げることは、自分を台無しにすることです。
「自分を見下げてはいけません[アートマーナム ナ アヴァサーダエート]」
自分自身の中の子供の母親になり、面倒をみなければならないこともあるかもしれません。
子供の時に、ちゃんと扱ってもらえなかったなら、何かしらの問題を抱えていることでしょう。
この「子供」の世話をするのも、友達になるのも、自分自身だけです。
大人とし て、内側の子供の母親になるのです。
「自分を向上させますように[アートマーナム ウッダレート]」
これが、クリシュナが伝えようとした意味です。
この詩は、その中に絶対的な意味でも読み取ることができますが、あらゆる段階において「自分自身を台無しにしませんように、自分自身を向上させますように」と言うことが出来ます。
自分自身を扱い、最終的な分析においては、自分を救うためには、自分以外の外側には、何も力になるものはないのです。
自分自身というのは、体・考え・感覚の複合体[カーリヤ・カラナ・サンガータ]です。
このカーリヤ・カラナ・サンガータが、意志を伴い、 アートマーの友人にもなり、アートマーの敵にもなるのです。
言い換えると、自分の後援者 にも、敵にもなりえるということです。
別の人が、あなたにとって恩恵を与える人[バンドゥフ]にはなることが出来ず、すべきことが出来るのは、あなただけです。
サムサーラの中で、成長し成熟するために、他者が助けになるかもしれませんが、サムサーラから出るためには、自分自身を解き放たねばなりません。